おおの はるなが

大野治長

1569.?〜 1615.6.4

 
大野治長の面白いイラスト
  

大野治長(治良)は、現在の滋賀県にあたる近江国の武将です。母・大蔵卿局が淀殿の乳母を務めた縁で幼少期から共に過ごします。淀殿が豊臣秀吉の子・秀頼を生むと側に仕えました。豊臣家の没落期に徳川家との関係が悪化し、交戦を主張して大坂の陣を戦いますが敗れ、秀頼と淀殿と自害しました。享年47。

大野治長は何をした人?このページは、大野治長のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと大野治長が好きになる「大坂の陣で馬印を持ったまま後退し味方の敗走を招いた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:大野治長 → 大野治良
  • 官 位:従五位下、修理大夫
  • 出身地:近江国(滋賀県)
  • 正 室:南陽院
  • 子ども:2男
  • 父と母:大野定長 / 大蔵卿局
  • 大 名:豊臣秀吉豊臣秀頼

大坂の陣で馬印を持ったまま後退し味方の敗走を招いた

豊臣家の衰退期(すいたいき)に登場する大野治長は、豊臣秀吉の側室・淀殿よどどのと深い関わりがあります。

大野治長の母・大蔵卿局おおくらきょうのつぼね淀殿よどどの乳母めのとをしていたことから、淀殿よどどのと同じ年ごろの(かれ)幼馴染おさななじみのように育ちました。

そのため、秀吉からも淀殿よどどのの従者のように見られており、彼女(かのじょ)の立場が上がるにつれて大野治長も引き立てられる出世ドミノが起こります。

そして、淀殿よどどのが秀吉の世継(よつ)ぎ(秀頼)を産んだことが大野治長の転機となるのでした。


秀頼君の
側近筆頭

1598年に豊臣秀吉が(ぼっ)すると、6歳の秀頼を母である淀殿よどどの後見こうけんするようになり、大野治長も彼女(かのじょ)のとなりで(なぞ)の存在感を示すようになっていきます。

一方、世間では江戸幕府をひらいた徳川家康による天下統一が進められ、豊臣氏は「元天下人」のような立場で取り残されていました。

淀殿よどどのと大野治長が暮らす大坂城にも、やがて徳川氏の脅威(きょうい)(せま)ります。

大野治長ら豊臣家の重役たちは、徳川のせいで没落(ぼつらく)したフリーターを大量にリクルートし、逆襲(ぎゃくしゅう)の準備をしました。


豊臣の命運が尽きた
馬印のゆくえ

1614年の大坂冬の(じん)で、かき集めたフリーターの頑張(がんば)りで豊臣軍は善戦。一旦(いったん)和睦わぼくしますが、半年後に大坂夏の(じん)勃発(ぼっぱつ)

この1615年の大坂夏の(じん)で、大野治長はやらかしてしまいます。

大坂城外での激戦は、毛利勝永や真田幸村の奮闘(ふんとう)もあって豊臣方が優勢。総大将・豊臣秀頼の登場次第で勝利が見える展開でした。

戦闘(せんとう)のまえ、出撃(しゅつげき)部隊から「勢いに乗れたら秀頼様を出馬させて」と(たの)まれた大野治長は、勝利の時が来たと判断し、果敢(かかん)出陣(しゅつじん)します。

このとき、大野治長は総大将の馬印うまじるしを持って大坂城を出ました。

ところが、なかなか秀頼君の出馬がありません。どうやら淀殿よどどのが止めているようです。

モタモタしてたら勝利が(にげ)げてしまう。大野治長は秀頼君を(むか)えに大坂城に(もど)ります。

大野治長は馬印を持って引き返す大チョンボをした

遠くから総大将の馬印うまじるしを見ていた味方の兵たちは「秀頼様が出馬された!勝った!」と思ったら、大坂城に(もど)っていくので「秀頼様が大坂城に退いている……負けたんだ」と落胆(らくたん)しました。

総大将が出てすぐに負けたと勘違(かんちが)いした兵たちは混乱し、敗走をはじめます。

これを見逃(みのが)さなかった徳川家康に戦いの風向きが変わったことを感じ取られ、大坂城は一気に()め落とされてしまうのでした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1569年、大野治長は尾張国おわりのくに葉栗郡(はぐりぐん)大野村に大野定長の長男として生まれます。母・大蔵卿局おおくらきょうのつぼね淀殿よどどの乳母めのとであったことから乳母子めのとごになりました。母と一緒(いっしょ)淀殿よどどのに付き従い、淀殿よどどのが豊臣秀吉の側室になったころから豊臣氏の政務に関わります。

秀頼・淀殿の側近になる

秀吉の死後、豊臣秀頼を後見する淀殿よどどのの側に仕えますが、徳川家康の暗殺を(くわだ)てた罪で下総国しもうさのくにに流罪となりました。許されて復帰したのち、大坂の(じん)勃発(ぼっぱつ)すると徳川氏への抗戦(こうせん)を主張し、真田幸村ら牢人ろうにん召集(しょうしゅう)します。

最後と死因

大坂城での決戦で豊臣秀頼に先んじて出撃(しゅつげき)したものの、段取りが合わずに撤退(てったい)大坂城の山里曲輪くるわで大野治長は淀殿よどどの、秀頼、大蔵卿局おおくらきょうのつぼねらと最後を共にしました。1615年6月4日、死因は自害。47歳でした。見事な切腹だったと伝わっています。

大野治長の性格と人物像

大野治長は「幼少期に人生が決まった人」です。

淀殿よどどの幼馴染おさななじみという立場が良くも悪くも運命を左右しました。秀頼に対する忠義というよりも、淀殿よどどの(じゅん)じた印象です。

徳川家康の暗殺を(くわだ)てて流罪になったり、豊臣家の家老・片桐且元に裏切りの疑いがかかるとこれも暗殺しようとしたり、物騒(ぶっそう)悪巧わるだくみをします。

古田織部から茶の湯を学んだインテリです。記録に残るほどの美男で、背が高くて色白の知的なイケメンでした。

豊臣秀吉の馬廻衆うままわりしゅうをしていたころから真田幸村とは旧知の間柄(あいだがら)で、徳川氏との大戦に際し、幸村を呼び寄せて指揮を任せたのは治長でした。

豊臣氏を立て直すだけの才覚はありませんが、そこまで無能だったわけでもなく、徳川氏に反抗(はんこう)した(おろ)か者として江戸時代になって悪役にされた感があります。

能力を表すとこんな感じ

大野治長の能力チャート

大野治長は官僚(かんりょう)として可もなく不可もなしですが、大将は無理です。すっかり武闘派(ぶとうは)がいなくなった豊臣家では仕方ありませんでした。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する大野治長の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

大野治長の面白い逸話やエピソード

豊臣秀頼の本当の父だった?淀殿と治長の熱愛の噂

じつは、豊臣秀頼は父である秀吉にちっとも似ていませんでした。

140cmほどしかない豊臣秀吉に対し、秀頼は190cmを()える巨体(きょたい)。ブサイクな秀吉と(ちが)って、秀頼は顔立ちも美しい。

秀吉の側室は大勢いたのに、秀吉の子を産んだのは淀殿(よどどの)だけ。あまりの不自然さに当時の人達も「秀頼は本当に秀吉の子?」と(うわさ)しました。

淀殿(よどどの)(うわさ)の相手は大野治長。
治長は高身長のイケメン。おまけにいつも淀殿(よどどの)とべったり。

淀殿(よどどの)と大野治長の密通の(うわさ)は、奈良の(そう)たちが140年も書き(つづ)った『多聞院日記(たもんいんにっき)』にも記されており、あながちデタラメとも言い切れません。

看羊録(かんようろく)』には、”秀吉の遺命に従って淀殿(よどどの)を徳川家康が(めと)ろうとしたが、大野治長の子を妊娠(にんしん)していた彼女(かのじょ)拒否(きょひ)した” と書かれています。

時空を()えた不倫(ふりん)ゴシップネタで、今もざわつかせるふたりなのでした。

大野治長の有名な戦い

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 ● 西軍8万2千 vs 東軍8万9千 ○

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

関ヶ原の戦いで大野治長は勝っています。

東軍として福島隊に配属され、宇喜多隊の鉄砲頭(てっぽうがしら)・香地七郎右衛門を討ち取っています。戦後、徳川家康の「豊臣家への敵意なし」という書簡を大坂城に届けました。

大坂冬の陣 おおさかふゆのじん 1614.12.19 〜 1615.1.19 △ 徳川幕府軍20万 vs 豊臣軍9万 △

方広寺鐘銘事件を発端に、徳川氏と豊臣氏がついに衝突。徳川家康は20万の大軍で大坂城(大阪府大阪市中央区)に迫った。豊臣秀頼は牢人を集めて籠城。真田幸村が考案した真田丸で徳川勢を撃退した。しかし、徳川軍の大砲の威力を前に、豊臣氏は和睦を申しでた。

大坂冬の(じん)で大野治長は引き分けています。

指揮官を務め、大坂城から出撃(しゅつげき)して戦うべきという主戦派の主張を退けています。淀殿よどどのの希望で籠城策(ろうじょうさく)を強行しました。

大坂夏の陣 おおさかなつのじん 1615.5.23 〜 6.4 ○ 徳川幕府軍16万5千 vs 豊臣軍5万5千 ●

大坂冬の陣から半年後、徳川家康による豊臣氏の殲滅戦。大坂城付近(大阪府藤井寺市、阿倍野区など)で激しい局地戦が行われた。毛利勝永が奮闘し、徳川本陣に真田幸村が決死の突撃をしたが、数で勝る徳川軍が押し切った。大坂城は落城。豊臣秀頼は出陣の機会なく自害した。

大坂夏の(じん)で大野治長は敗れています。

大野治長のターニングポイントになった戦いです。
後詰(ごづ)め部隊を率いて出撃(しゅつげき)しますが、秀頼の出馬がなく撤退(てったい)。その後、総崩(そうくず)れとなりました。敗戦に際し、淀殿(よどどの)と秀頼の助命を願い出ますが聞き入れらず、ともに自害しています。

大野治長の詳しい年表と出来事

大野治長は西暦(せいれき)1569年〜1615年(永禄(えいろく)12年〜慶長(けいちょう)20年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15691大野定長の嫡男として尾張国に生まれる。※丹後国の出身とする説あり
母・大蔵卿局と茶々(淀殿)に付き従う。
158820豊臣秀吉の馬廻り衆になる。
158921豊臣秀吉から和泉国と丹後国の一部を拝領する。
159224肥前国・名護屋城に入る。【文禄の役】
159426伏見城の普請奉行を務める。
159828主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。
159929豊臣秀頼の詰衆二番之組筆頭として大坂城に入る。
前田利長、浅野長政、土方雄久と徳川家康の暗殺を企てる。増田長盛に密告されて下総国の結城秀康のもとへ流罪。【家康暗殺未遂事件】
160030徳川家康から許される。
”関ヶ原の戦い”福島正則の指揮下で石田三成との戦に東軍として参加。宇喜多秀家と交戦。
徳川家康の使者として大坂城に入り帰参する。
161446徳川家康の配慮で豊臣秀頼から加増される。お礼として徳川氏の駿府城、江戸城を訪ねる。
方広寺の釣鐘に彫られた「国家安康」の文字が不敬であるとして豊臣氏と徳川氏の関係が悪化する。【方広寺鐘銘事件】
徳川氏との取次役をしていた片桐且元に内通疑惑があり暗殺を企てる。片桐且元が大坂城から去る。
渡辺糺と豊臣氏の鬮取奉行になる。
”大坂冬の陣”徳川家康との戦に参加。籠城策を支持し総指揮を執る。和睦交渉を成立させ次男・弥七郎を人質に出す。
161547”大坂夏の陣”徳川家康との戦に参加。大坂城本丸を守備。後詰めを率いて出撃する。豊臣秀頼が出馬せず撤退。秀頼と淀殿の助命を願うが拒否される。摂津国・大坂城で豊臣秀頼、淀殿、母・大蔵卿局と自害。豊臣家滅亡
戦国時代で大野治長が生きた期間の表
大野治長の顔イラスト
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