豊臣秀長
1540.4.8 〜 1591.2.15

豊臣秀長(羽柴長秀、木下小一郎)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。豊臣秀吉の実弟で、兄を影のように支えた分身です。宰相や大和大納言と呼ばれて讃えられました。秀吉の天下統一に貢献し、豊臣政権の基盤となりましたが、秀長の死後、秀吉の行いは醜悪なものとなり、没落してしまいます。享年52歳。
- 豊臣秀長の人物タイプ
- 参謀
このページでは、豊臣秀長が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。きっと豊臣秀長のことが好きになります。
- 名 前:木下長秀 → 羽柴長秀 → 豊臣秀長
- あだ名:大和宰相
- 官 位:美濃守、参議兼右近衛権中将、権中納言、権大納言
- 出身地:尾張国(愛知県)
- 領 地:和泉国、大和国、紀伊国
- 居 城:有子山城、姫路城 → 和歌山城 → 郡山城
- 正 室:秋篠伝左衛門の娘(智雲院)
- 子ども:1男 2女 3養
- 跡継ぎ:豊臣秀保
- 父と母:竹阿弥 / なか
あと10年生きていれば…有能な弟が秀吉を補佐していた
豊臣秀長が大友宗麟をもてなしたおりに「内々の事は宗易、公儀の事は宰相(自分)に相談して」と告げました。”内緒の話は宗易=千利休、公の政治の話は豊臣秀長に言ってね” という意味です。
それほどまでに豊臣氏の政治に精通した豊臣秀長とは、秀吉の3歳下の異父弟(同父弟の説もあり)です。秀吉は弟の秀長を全面的に信頼して、多くのことを任せていました。
兄のすべてをサポートした豊臣秀長は、もうひとりの秀吉でした。そして、秀吉から邪悪な要素を取り除いた人格者でした。
豊臣秀長が幼い頃に、兄・秀吉は家を追い出されていたため、ふたりが共に過ごすようになったのは、大人になってからでした。弟には分別があり、ときには兄を叱責したり、周囲と兄の溝や誤解を埋める気配りをして、バランスを取りました。
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没後、秀吉の
暴走がはじまる
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『千利休切腹事件』『文禄・慶長の役』『秀次切腹事件』『日本二十六聖人』これらは、負の歴史として日本史に残る出来事です。いずれも周囲の反対を聞かずに、独裁者・晩年の豊臣秀吉がやらかしたことでした。
そして、これらの暴挙は、豊臣秀長の没後すぐにはじまった横暴であり権力の暴走でした。

秀吉の暴走の際たるものが、後継者として養子にし、関白職まで継がせていた豊臣秀次(姉の子)を切腹させた1595年の『秀次切腹事件』です。
世継ぎの誕生をあきらめていた秀吉に、待望の男子が生まれたことに端を発して、実子(秀頼)に跡を継がせたいあまり、言いがかりをつけて甥である秀次を切腹させたのです。
以前、1584年の小牧・長久手の戦いで秀次がミスをし、秀吉に激怒されました。これを豊臣秀長がなだめて、秀次のペナルティを軽くしてあげたことがありました。豊臣秀長が生きていれば、秀次を死なせることはなかったでしょう。
秀次を死なせ、幼い秀頼に継がせたことで、徳川家康に政権を牛耳られ、豊臣氏は滅ぼされます。豊臣秀長の死没は、秀吉に冷静な判断力を失わせ、豊臣政権の終わりに直結してしまいました。
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藤吉郎と小一郎の
クロスオーバー
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兄弟がはじめて連携した軍事行動をしたのは、織田信長に命じられた中国地方攻めのときでした。兄と弟は、2つに分けた大軍をそれぞれが動かして、双方向から攻め落としました。難敵・島津氏を相手にした九州征伐でも、同様のシザーズ戦法で二方向から攻略しました。豊臣秀長は、島津家久を降伏させ、島津義弘の部隊を壊滅させる働きをしています。
藤吉郎と呼ばれていた頃から、奔放な性格の兄。一方、弟の小一郎は几帳面でまじめな性格でした。弟・豊臣秀長と、異なる性格が交差して、阿吽の呼吸で補いあえたのが、豊臣秀吉の強さでした。
寺社勢力の影響がつよい大和国という地域を、奈良での商いを禁止して郡山でも商売を奨励するなどの方法でバランスを整えました。石高を水増ししていた寺社の不正を検地で正し、税収を安定させました。豊臣秀長が行った検地が、太閤検地のモデルになっています。
豊臣秀長の生涯をふりかえる
豊臣秀長は、1540年に尾張国・愛知郡中村郷の貧しい家に生まれます。畑仕事をして暮らしますが、3つ年上の兄・豊臣秀吉に誘われて織田信長に仕え、陰ながら兄の出世をサポートしました。信長が亡くなり、兄である秀吉が天下取りを目指すと、これに尽力して四国征伐や九州征伐で活躍しました。
宰相と呼ばれた政治力で、豊臣政権の舵取りをした豊臣秀長ですが、晩年はからだの具合が悪い日が続きました。そんなおりに部下の横領が発覚し、秀吉から怒られます。兄から対面を拒否されたまま、1591年に結核またはヒ素中毒により大和国・郡山城で亡くなりました。52歳でした。
農夫として過ごしていた日常から、新進気鋭の織田家に入った豊臣秀長は、戸惑いながらも兄・秀吉を懸命に助けました。没後、郡山城には豊臣家のために莫大な財が貯蓄されていました。

大和国、紀伊国、和泉国を合わせた110万石が豊臣秀長の領地でした。兄・秀吉の大坂城と京に隣接する地域を治めました。もとは播磨国と但馬国を領有していましたが、1585年の紀州征伐以降に移封しました。
豊臣秀長の性格と人物像
豊臣秀長は「バランスと調整力に優れた人」です。補佐という役でこそ輝ける、細やかな気遣いが得意です。自身も相当の実力者ですが、決して目立とうとせず、全体の調和や温度感を大事にします。ほんの少しのほころびにも、気づいて対処できます。えらぶったところがなく、誰からも慕われる人柄でした。
農民暮らしが気に入っていました。畑しごとが好きだったので、はじめは兄の誘いに乗り気ではありませんでした。兄に説得された母のすすめで、武士になることにしました。
農夫から領主になるまでに、必要な知識を身につけた勤勉さが示すように、まじめで努力家です。生来、温和で寛大な心の持ち主であったことも、政治に活かされています。
家族や兄を敬う気持ちが強く、身内に対して悪評が立つことを嫌います。秀吉が道をあやまろうとすると、それを咎めました。また、秀吉へのとりなしを頼む諸大名を親身になって助け、多くの人の地位を守りました。
実際に着用していたと伝わる甲冑『金小札紫糸威二枚胴具足』が残っています。武芸は得意ではありませんが、足軽兵のけんか騒動の仲裁に入って、気迫で黙らせたことがあります。
豊臣秀長の能力を考えてみる

あらゆる面でトップクラスの実力を発揮しています。豊臣秀長が際立っていたのは、人柄の良さで慕われた人望の厚さです。兄に恐怖する人々も、秀長には心を許しました。
豊臣秀長のエピソードや逸話
うぐいす餅がつくられたきっかけになっている
紀州征伐、四国征伐の功績によって、秀吉は秀長に大和一国を領地として与えました。これを受けて、秀長は兄を大和に招いて茶会を催します。
ありきたりの茶菓子では、兄を驚かせることはできない。そう考えた秀長は、お抱えの菓子職人である菊屋治兵衛に「めずらしい菓子を用意してほしい」と頼みます。これは大変なお役目を仰せつかったぞと治兵衛は思案し、これまでにない菓子をつくりました。
菊屋は、ひとくちサイズの餅でつぶあんを包み、きなこをまぶした餅菓子を用意しました。これを食べた豊臣秀吉は、うまい!と笑みを浮かべて「うぐいす餅と名付けよ」と、たいそう気に入って商品名まで付けました。
豊臣秀長の有名な戦い
伊勢・長島(三重県桑名市)の一向宗門徒と織田信長による合戦。石山合戦に伴って3回行われた。織田軍は柴田勝家らを投入するが、熾烈な争いは一進一退が続く。九鬼嘉隆の水軍を率いた滝川一益が海上攻撃で打破。信長は、屋長島、中江を柵で囲い、焼き討ちで全滅させた。
長島一向一揆で豊臣秀長は勝っています。
越前で発起した土一揆の対応にあたった秀吉に代わって、参戦しました。織田信長の部隊とともに攻め入り、一隊を率いて篠橋砦を落とす活躍をしました。
織田氏に叛いた別所長治が篭る三木城(兵庫県三木市上の丸町)を羽柴秀吉が2年ちかく包囲した合戦。竹中半兵衛が考案した補給ルートを断つ作戦で、三木城を孤立させた。餓死者であふれた城内は凄惨をきわめ、開城降伏となった。三木の干し殺しとも。
三木合戦で豊臣秀長は勝っています。
別動隊で、三木城の北にある丹生山の淡河城を攻めました。はじめ苦戦しますが、淡河定範を逃亡させて落としました。これにより、補給路の分断に成功しました。
本能寺で織田信長を討った明智光秀と駆けつけた羽柴秀吉が山崎(京都府長岡京市)で激突した合戦。天王山の戦いとも呼ばれる。秀吉は中国地方で毛利氏と交戦中だったが、これを停戦し、急行した。予想外の速さで現れた羽柴軍に明智軍は劣勢となり、敗走した。
山崎の戦いで豊臣秀長は勝っています。
黒田官兵衛と右翼を担い、天王山を下った前線で明智軍の松田政近と交戦しました。
四国地方を制していた長宗我部元親を、阿波、讃岐、伊予の三方向から、羽柴秀長を総大将とした大軍が攻めた。讃岐方面から進軍した黒田官兵衛が諸城を攻略して、阿波に侵攻。小早川隆景が伊予を制圧した。四国全体で戦火が上がったが、長宗我部氏の降伏により終戦した。
四国征伐で豊臣秀長は勝っています。
豊臣秀長のターニングポイントになった戦いです。
秀吉の体調不良により、指揮官として四国攻めの征伐軍を率いました。兄と一緒ではなく、秀長を総大将とした大軍で戦果をあげたはじめての合戦です。この戦いに向けて、心配する秀吉に「任せてほしい」と告げて臨みました。
惣無事令に違反して大友領を攻めた島津氏の討伐軍を豊臣秀吉が派兵した。豊臣秀長を総大将とした15万の大軍を相手に、島津義弘が奮戦するが、敗れて後退。根白坂(宮崎県児湯郡木城町)で決戦となった。豊臣軍の黒田官兵衛が島津軍の夜襲を見抜いて返り討ちにした。
根白坂の戦いで豊臣秀長は勝っています。
秀吉とふた手に分かれて、島津領を日向国から侵攻する軍勢の総大将を務めました。根白坂に砦を築いて島津義弘を迎撃し、壊滅的な被害を与えました。これにより、島津氏が豊臣氏に降伏。九州地方を平定しました。
豊臣秀長の詳しい年表
豊臣秀長は西暦1540年〜1591年(天文9年〜天正19年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1540 | 1 | 竹阿弥の子として尾張国に生まれる。 |
1564 | 25 | 兄・秀吉にスカウトされる。農夫をやめて織田信長に仕える。 改名 → 木下(小一郎)長秀 |
1570 | 31 | ”金ヶ崎の戦い”朝倉義景との戦に参加。兄・秀吉と最後尾を担って信長本隊を退却させる。 |
1572 | 33 | 浅井長政の家臣、宮部城主・宮部継潤を調略する。 |
1573 | 34 | ”一乗谷城の戦い”朝倉義景との戦に参加。朝倉家滅亡 ”小谷城の戦い”浅井久政・長政父子との戦に参加。浅井長政の妻・市と3人の娘を救出する。浅井家滅亡 兄・秀吉が近江国・長浜城の城主となる。城代を務める。 |
1574 | 35 | ”第3次長島一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。篠橋砦を攻める。 |
1575 | 36 | 改名 → 羽柴長秀 |
1577 | 38 | 兄・秀吉が中国地方の平定を任じられる。秀吉から但馬国の平定を任される。 ”竹田城の戦い”太田垣輝延が篭る山名領・竹田城を攻め落とす。竹田城の城代になる。 |
1578 | 39 | ”三木合戦”別所長治との戦に参加。 |
1579 | 40 | 淡河定範が篭る淡河城を攻めるが、奇襲により敗れる。定範が後退したため三木城の補給路を分断することに成功。 但馬国から丹波国に侵攻する。綾部城を陥落させる。 ”第2次黒井城の戦い”明智光秀の指揮下で黒井城攻めに参加。 |
1580 | 41 | 山名堯熙の有子山城攻めに参加。 但馬国・有子山城の城主となる。 |
1581 | 42 | *藤堂高虎に小代一揆の討伐に向かわせる。 ”第2次鳥取城攻め”吉川経家との戦に参加。鳥取城を包囲する陣城を指揮する。 |
1582 | 43 | ”備中高松城の戦い”清水宗治との戦に参加。鼓山に陣を張る。 主君・織田信長が死亡。【本能寺の変】 ”山崎の戦い”明智光秀との戦に参加。黒田官兵衛と天王山に布陣。松田政近らと交戦する。 |
1583 | 44 | ”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家との戦に参加。 兄・秀吉から播磨国と但馬国を拝領する。 姫路城と有子山城を居城にする。 |
1584 | 45 | ”小牧・長久手の戦い”織田信雄&徳川家康との戦に参加。松ヶ島城を開城させる。織田信雄との講和をまとめる。 |
1585 | 46 | ”第2次紀州征伐”雑賀衆との戦に参加。甥・羽柴秀次と副将を務める。 兄・秀吉から紀伊国、和泉国など64万石を拝領する。 和歌山城を築城、居城にする。 ”四国征伐”総大将として長宗我部氏の討伐に向かう。阿波国から四国に上陸し、一宮城、岩倉城などを落とす。長宗我部元親を降す。 兄・秀吉から大和国を拝領する。所領が100万石を超える。 郡山城を居城にする。 |
1586 | 47 | 盗賊の追補を通達。【廊坊家文書】 検地を行う。 5か条からなる掟を制定。【法隆寺文書】 ”北山一揆”奥熊野の地侍の一揆を鎮圧する。 改名 → 豊臣秀長 |
1587 | 48 | ”九州征伐”日向表陣立の総大将として島津氏の討伐に向かう。 ”根白坂の戦い”高城を包囲。根白坂に砦を築いて島津軍を迎撃、壊滅させる。 島津家久を降伏させる。 |
1590 | 51 | 兄・秀吉が小田原征伐に向かう。畿内の留守を預かる。 豊臣秀吉の天下統一が成る。 |
1591 | 52 | 大和国・郡山城で病死。 |

- 豊臣秀長 – Wikipedia
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