しまづ いえひさ

島津家久

1547.?〜 1587.7.10

 
島津家久の面白いイラスト
  

島津家久は、現在の鹿児島県西部にあたる薩摩国の武将です。島津四兄弟の四男で、三人の兄たちの異母弟です。兄たちと協力して、九州統一を目指しました。釣り野伏せに代表される軍略に異才を発揮して、沖田畷の戦いや戸次川の戦いなど、数的不利でも島津軍を勝利に導き、敵将を討ち取る活躍をしました。享年41。

島津家久は何をした人?このページは、島津家久のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと島津家久が好きになる「必殺の釣り野伏せ戦法で敵将をつぎつぎと討ち取った」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:島津家久
  • 出身地:薩摩国(鹿児島県)
  • 居 城:佐土原城
  • 正 室:樺山善久の娘
  • 子ども:3男 3女
  • 跡継ぎ:島津豊久
  • 父と母:島津貴久 / 肥知岡氏
  • 大 名:島津貴久 → 島津義久

必殺の釣り野伏せ戦法で敵将をつぎつぎと討ち取った

島津四兄弟の四男・島津家久とは、沖田畷(おきたなわて)の戦いで龍造寺隆信を討ち取ったことで一躍(いちやく)その名を知られた人物です。

祖父・島津忠良は島津家久のことを「軍法戦術に(みょう)を得たり」と評しています。祖父は、島津家久に戦術家として特別な才能を見出していました。

事実、島津家久が敵将を討ち取る確率は異常に高く、名だたる武将たちを仕留めた最強のバトルマシーンでした。

島津家久が高確率で敵将を討ち取れた秘訣(ひけつ)は『()野伏(のぶ)』の戦法にありました。

()野伏(のぶ)せとは、長兄・義久が考案し、次兄・義弘が陣容(じんよう)を完成させた島津家固有の戦い方で、島津家久によって結実されます。

四兄弟が島津氏の最盛期を築いた背景には、次男・義弘とともに前線部隊を率いた四男・島津家久の大物を()りまくるジャイアントキリングがありました。


戦国史上
最強の釣り師

()野伏(のぶ)せの陣容(じんよう)は、あらかじめ左右に伏兵(ふくへい)を配置し、()り隊がおとりとなってトラップエリアまで敵兵を誘導(ゆうどう)します。

まず「()りの動き」で絶妙(ぜつみょう)苦戦するふりをしながら敵兵を死地へと(さそ)います。

【釣り野伏せ】島津氏が得意とした戦法

次に伏兵(ふくへい)の「野伏(のぶ)せの動き」で()られてきた敵兵を左右から挟撃(きょうげき)します。

Uターンした()り隊もここに加わって全方向から袋叩(ふくろだた)きにします。
相手よりも兵数が少ない寡兵(かへい)の場合には特に有効で、敵をフルボッコにする殲滅(せんめつ)戦法です。

島津氏が得意としたこの必殺戦法によって、島津家久のキル能力は存分に発揮されました。

()野伏(のぶ)せでは決死の覚悟(かくご)が求められる()り隊の働きが重要で、作戦の遂行(すいこう)には高度な戦術理解と統制、なによりも士気が肝心(かんじん)です。

島津家久が率いた()り隊が高い士気を保てた理由はシンプルです。

それは、敵兵よりも(おそ)ろしい島津家久が後ろに居たから。びびって()げようもんなら(たた)()られるのでした。

デビュー戦の廻坂(まわりざか)の合戦でいきなり肝付兼続の家臣・工藤隠岐守を一騎討(いっきう)ちで仕留めています。

その後の合戦では、龍造寺氏の当主で『肥前(ひぜん)の熊』の異名をとった龍造寺隆信、長宗我部氏の嫡男(ちゃくなん)・長宗我部信親、十河氏の当主である十河存保が、島津家久の()野伏(のぶ)せの餌食(えじき)となりました。

敵将、それも大名クラスの大物をこれほど討ち取った実績は、島津家久をおいて類を見ません。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1547年、島津家久は薩摩国(さつまのくに)伊作城(いざくじょう)に守護大名である島津貴久の四男として生まれます。島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の一番下です。3人の兄たちとは異母兄弟でした。15歳の初陣(ういじん)で敵将を討ち取る活躍(かつやく)をし、兄たちの戦列に加わります。沖田畷(おきたなわて)の戦いでは、龍造寺隆信を討ち取りました。

豊臣軍に単独で抗戦

豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)が始まると、千石秀久が率いる豊臣先鋒隊(せんぽうたい)迎撃(げいげき)し、戸次川の戦いに勝利します。しかし、その後に九州上陸した豊臣軍本隊に(こう)しきれず、兄たちに先だって豊臣秀長と単独講和しました。

最後と死因

豊臣軍と講和を結んだ直後、島津家久は日向国(ひゅうがのくに)・佐土原城で急死しました。1587年7月10日、死因は病気。41歳でした。急死には不自然な点もあり『島津国史』には島津家久が毒を盛られる描写(びょうしゃ)があります。豊臣氏や島津氏による毒殺や暗殺の説も。

島津家久の性格と人物像

島津家久は「強い意志を持った人」です。

兄弟で自分だけが側室の子というコンプレックスに(さいな)まれてウジウジしますが、長兄・義久の「親が(だれ)であろうと関係ない。努力して立派な人になれ」という言葉でリミッターが解除されます。

年が(はな)れた兄たちに追いつくため、島津ブランドにふさわしい武士になるため、昼も夜も学問と武芸に没頭(ぼっとう)し、少しも時間を無駄(むだ)にしませんでした。

努力の甲斐(かい)あって指揮官の才能を開花させた家久を、宣教師・ルイス=フロイスは「極めて優秀(ゆうしゅう)なカピタン(武将)にして老練な主将」と評しています。

単身で京に(おもむ)いたおり、織田家臣・明智光秀の接待を受けますが、茶道の作法を知らなかったので「お水をください」と言ってしまうシャイボーイです。連歌もやりません。

好物はどぶろく。酒が好きで日頃(ひごろ)から大量に飲んでいました。

他勢力と勝手な条件で取次をする(くせ)があり、領地安堵(あんど)援軍(えんぐん)の約束など良い顔をしてしまいます。兄・義久から、こういうところが信用されませんでした。

能力を表すとこんな感じ

島津家久の能力チャート

ハイリスクな戦法を駆使(くし)して敵将を討ち取る強さこそ、島津家久の特徴(とくちょう)です。高度な戦術眼と度胸、そして統率力に優れています。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する島津家久の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

島津家久の面白い逸話やエピソード

長宗我部元親の嫡男を討つが粋な心づかいもする

豊臣軍を迎撃(げいげき)した1587年の戸次川の戦いで、島津家久は四国の(ゆう)である長宗我部氏の嫡男(ちゃくなん)・長宗我部信親を討ち取りました。

敗戦に加えて、嫡男(ちゃくなん)の討死に父・元親は落胆(らくたん)します。そのうえ、海が干潮で船が出せず、退却(たいきゃく)もできずに往生していました。

島津軍にしてみれば追撃(ついげき)する絶好の機会でした。

しかし家久はこれをせず、(いき)な心づかいをします。

信親殿(どの)を討ったのは戦場の習いです。追い討ちなどしませんので、潮が満ちるのを待って退いてください

長宗我部の陣営(じんえい)にこう伝え、約束どおり追撃(ついげき)しませんでした。

満ち潮まで待って無事に退却(たいきゃく)した長宗我部元親は、家久の対応に深く感謝したといいます。

島津家久の有名な戦い

耳川の戦い みみかわのたたかい 1578.11.19 〜 12.10 ● 大友軍4万 vs 島津軍3万 ○

日向国を制圧した島津氏に対して、大友宗麟が進軍。大筒を投入し、耳川ちかくの高城(宮崎県児湯郡木城町)を積極的に攻めた合戦。島津義久は伏兵を配備して迎撃する。島津義弘と、高城から出撃した島津家久が伏兵によって大友軍を一網打尽にした。高城川の戦いとも。

耳川の戦いで島津家久は勝っています。

高城から出撃(しゅつげき)した家久は、兄と協力して大友宗麟を撃退(げきたい)することに成功しています。この勝利によって大友氏の勢力は衰退(すいたい)し、島津氏が北九州に進出しました。

沖田畷の戦い おきたなわてのたたかい 1584.5.4 ● 龍造寺軍2万5千 vs 有馬&島津軍6千 ○

離反した有馬晴信を龍造寺隆信が攻めた合戦で、島津家久が有馬氏の援軍として参陣。泥田・沼地の沖田畷(長崎県島原市北門町)を決戦の地とした。地形を利用した伏兵戦術で、有馬軍と島津軍が圧勝。大敗を喫した龍造寺氏は、龍造寺隆信ほか多数が討ち死にした。

沖田畷(おきたなわて)の戦いで島津家久は勝っています。

島津家久のターニングポイントになった戦いです。
兄たちの援軍(えんぐん)を待たずに単独で龍造寺隆信との決戦に臨みました。(なわて)(田んぼ道)の地形を活かした完璧(かんぺき)()野伏(のぶ)せが炸裂(さくれつ)した合戦です。この勝利を契機(けいき)に、家久は(だれ)もが認める軍略家として名を()せました。

戸次川の戦い へつぎがわのたたかい 1587.1.20 ○ 島津軍1万 vs 豊臣軍2万 ●

豊後国に侵攻した島津家久が大友氏の鶴ヶ城を攻める。これを救援するため、仙石秀久を主将とした豊臣軍が戸次川(大分県大分市中戸次)に布陣。秀吉は待機するよう命じたが、仙石隊は攻撃を開始してしまう。島津軍はこれを返り討ちにし、長宗我部信親を討ち取った。

戸次川の戦いで島津家久は勝っています。

豊臣の先兵を相手に勝利を収めます。単独軍が秀吉の大軍を打ち破った例は他にありません。しかし、このあと大挙した本隊に歯が立たず、兄たちよりも先に投降しました。

島津家久の詳しい年表と出来事

島津家久は西暦(せいれき)1547年〜1587年(天文(てんぶん)16年〜天正(てんしょう)15年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍(かつやく)した武将です。

15471島津貴久の四男として薩摩国に生まれる。幼名:又七郎
156115”廻坂の合戦”肝付氏との戦に参加。一騎討ちで工藤隠岐守を討ち取る。
156923大口城に篭る菱刈氏&肝付氏の連合軍を伏兵で敗る。
157529伊勢神宮などを参詣するため単身で上洛。明智光秀から接待を受ける。
157832”耳川の戦い”大友宗麟との戦に参加。迎撃し撃退する。耳川に追撃して多くの兵を溺死させる。
158236龍造寺氏から離反した有馬晴信を次兄・義弘とともに援護し、千々石城を攻略する。
158438”沖田畷の戦い”龍造寺氏の大軍を撃破し、龍造寺隆信を討ち取る。
日向国・佐土原城に入る。
158640”九州征伐”豊臣秀吉との戦に参加。
158741大友領・鶴ヶ城を攻める。
”戸次川の戦い”仙石秀久が率いる豊臣秀吉の九州征伐軍を撃退。長宗我部信親、十河存保を討ち取る。
豊後国・府内に侵攻する。
大友領・丹生島城を攻めるが国崩し(フランキ砲)に苦戦、退く。
九州征伐軍の本隊20万に敗れる。豊臣秀長と単独講和する。
日向国・佐土原城で急死。
戦国時代で島津家久が生きた期間の表
島津家久の顔イラスト
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