服部半蔵
1542.?〜 1597.1.2

服部半蔵(正成)は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。槍の扱いに長け、一番槍の手柄を挙げることも多く『鬼半蔵』と呼ばれた豪傑です。父の出自が伊賀忍者だったこともあり、徳川家に仕える伊賀衆を統括し、鉄砲隊や諜報部隊を率いました。徳川家康のピンチを警護した伊賀越えが有名です。享年56歳。
- 服部半蔵の武将タイプ
- 猛将
服部半蔵は何をした人?このページは、服部半蔵のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと服部半蔵が好きになる「じつは忍者じゃなかったけど伊賀衆を束ねる頭領だった」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:服部正成
- 別 名:半蔵、半三
- あだ名:鬼半蔵
- 官 位:石見守
- 出身地:三河国(愛知県)
- 正 室:長坂信政の娘
- 子ども:4男
- 跡継ぎ:服部正就
- 父と母:服部保長 / 不明
じつは忍者じゃなかったけど伊賀衆を束ねる頭領だった
服部半蔵と聞くと、ほとんどの人が忍者をイメージするのではないでしょうか?
じつは服部半蔵には、忍者の半蔵と忍者ではない半蔵が居ました。『半蔵』とは、服部家の当主が名乗った通称であり、有名な服部半蔵は本名を服部正成といいます。そして、彼は忍者ではありませんでした。
もとは伊賀者だった父が故郷を離れて三河に移り住み、松平家に仕えたことを契機に忍者から武士に転身しました。父を継いだ服部正成も松平を改めた徳川家に仕え、半蔵を名乗りました。この服部正成が、伊賀越えや半蔵門で知られる服部半蔵なのです。
彼に与えられた役目は、徳川氏に雇用されている伊賀出身者(ほとんどが忍び)で構成された特殊部隊の管理。「お父さん伊賀忍者だったし君できるでしょ?」的なノリを感じてしまう人事に苦悩しながらも任務を遂行しました。
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家康のピンチ
伊賀越えで暗躍
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1581年、服部半蔵は織田家臣と揉めたあげくに斬ってしまい、責任をとって死んだことになっていました。それが伊賀越えのどさくさにまぎれて復活します。
『伊賀越え』とは、1582年に織田信長が明智光秀によって討たれた『本能寺の変』の際、現場のすぐ近くに滞在していた徳川家康も死に目をみた災難イベントのこと。明智勢に命をねらわれた家康は、わずか34名の従者を伴い、伊賀山中のけもの道を抜けて危険区域からの脱出を試みます。
200人の伊賀者に護衛してもらって家康一行は山中を通りぬけたのですが、このときに伊賀者を懐柔したのが服部半蔵でした。

とはいえ、伊賀の者は利益なしには動かない曲者ばかり。このことをDNAレベルで理解していた服部半蔵は、豪商・茶屋四郎次郎の協力を得て、通る先々のイガモンを買収。途中、落武者狩りや大将首をねらう一揆勢に襲われますが、これを撃退して家康を無事に逃がしました。
この後、伊賀者たちは徳川家に大量雇用され、服部半蔵の指揮下に配属されます。しかし、この者たちは父や服部家のことをよく知っており「べつに服部の家来になったわけじゃねえ」と反発します。素直に言うことを聞いてくれませんでした。
服部半蔵が組織した伊賀衆もまた、頭領に忠実な忍者軍団のイメージとは違いました。
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江戸城の裏門
半蔵門を守る
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現在の皇居となっている江戸城の西側に『半蔵門』と呼ばれる門があります。半蔵門を出ると甲州街道につながっており、甲州海道は江戸城に直結する唯一の街道で、江戸から出撃する場合や、敵が江戸に侵入するのを阻止する軍事街道でした。また、徳川将軍の緊急脱出用の裏口としても想定されていました。
この大事な門を守衛したのが服部半蔵が率いる『伊賀同心二百人組』であり、徳川家康が本拠地の要所を預けた精鋭集団でした。
生涯を簡単に振り返る
1542年、服部半蔵は三河国・額田郡伊賀村に服部保長の5男または6男として生まれます。父の代から松平氏に仕えていました。桶狭間の戦い後、徳川氏に改姓した家康の旗本衆に加わります。父が伊賀者だった縁で徳川家伊賀衆の頭領を務め、伊賀・甲賀・雑賀の者を統括しました。
伊賀出身という服部家の出自に苦しめられた感もあり、同郷の者に理解を得られないなか、強烈な個性派集団を遊軍や諜報部隊として機能させます。織田信長が襲撃された本能寺の変のとき、徳川一行を警護した伊賀越えなど、数々の危機から家康を救いました。
最後と死因
晩年は江戸城の裏門を警備する任務を与えられ、服部半蔵は武蔵国・江戸の服部屋敷で亡くなりました。1597年1月2日、死因は病気。56歳でした。
服部半蔵の性格と人物像
服部半蔵は「堪え忍ぶ管理職の人」です。
半蔵の出自が伊賀国という理由だけで、クセがつよい伊賀衆の管理を任されたものの、自分を上司と認めてくれない部下たちの反抗的な態度にイライラします。しかし、任務遂行のためには部下の機嫌をとる必要があり、つらいところです。
日頃のストレスもあってか、ひとたび頭に血がのぼると抑えがきかなくなります。味方同士で揉め事を起こした部下のいざこざを仲裁するはずが、火をつけた火縄銃で相手を威嚇して周囲に止められたこともある困った上司です。
家康の嫡男・松平信康がやむをえない事情で切腹することになった際、介錯役を務めるはずでしたが、信康が気の毒で刀を放り投げて泣き出してしまう優しい一面がありました。
一番槍の功名にこだわる武人で『鬼の半蔵』と呼ばれた槍の達人。腕っぷしの強さで幾度となく主君・家康をピンチから救っています。鉄砲の扱いも上手。闇夜に紛れての奇襲もお手の物です。
子どもの頃から筋骨たくましく怪力の持ち主です。無鉄砲なところがあり、10歳のときに出家を嫌って寺を飛び出したまま家には帰りませんでした。
三方ヶ原の戦功により家康からもらった『服部半蔵の槍』と『平安城長吉の槍』ほか、数点の武具が現存しています。
半蔵は通称で、本名は服部正成です。
能力を表すとこんな感じ

槍の名手である服部半蔵は、一対一に抜群の強さがあります。諜報などの隠密行動を担う特殊部隊を駆使する頭脳がありますが、政務は得意ではありません。
信長の野望シリーズに登場する服部半蔵の能力値も参考にしています。
服部半蔵の面白い逸話やエピソード
伊賀忍者だった父が初代、何人もの服部半蔵がいる
服部半蔵とは、服部家の当主が襲名する名跡です。服部保長を初代とし、徳川家譜代の家臣となった服部家では、代々この名前が継がれていきます。
忍びの者だったのは初代の保長のみ。二代目以降は武将でした。徳川家に仕える特殊部隊の管理職を任されますが、伊賀を捨てた服部は伊賀者たちから軽視され、半蔵と伊賀同心との間には確執が絶えませんでした。
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初代・半蔵
服部保長
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生没年不明。
伊賀国・花垣村一帯の土豪。この人は完全に忍者です。服部半蔵=忍者のイメージは、初代・保長によるものでした。
服部氏族には千賀地、百地、藤林の三家があり、分け合っていた土地が狭く、不自由を感じた保長は伊賀国を出て京に行き、12代将軍・足利義晴に仕えました。その際に千賀地から旧姓の服部に戻しました。その後、三河国に移り、松平清康(家康の祖父)に仕えます。
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二代目・半蔵
服部正成
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1542年 〜 1597年、享年56歳。
一般的に知られる服部半蔵はこの人です。服部保長の子で、父から引き続き松平家譜代の家臣として徳川家康に仕えます。彼の代から徳川家の伊賀衆をはじめとした特殊部隊の頭領になります。
※このページは半蔵=正成として作成しています。正成と読まれることもあるようです。
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三代目・半蔵
服部正就
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1576年 〜 1615年、享年40歳。
服部正成の長男。正成の病死により三代目・半蔵を襲名。父が率いた伊賀同心を引き継ぎ、鉄砲奉行として関ヶ原の戦いで活躍します。伊賀同心との確執といざこざに悩み、些細なことがきっかけで1604年に改易(家禄を没収)されました。
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四代目・半蔵
服部正重
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1580年 〜 1652年、享年73歳。
服部正成の次男。正就の改易により四代目・半蔵を襲名。将軍・徳川秀忠の近侍を務めます。大久保長安事件への関与を疑われたのち、別件で1613年に改易。村上藩・村上頼勝、次いで桑名藩・松平定綱に召し抱えられて家老職を担いました。
服部半蔵の有名な戦い
上宮寺や勝鬘寺(ともに愛知県岡崎市)などの寺社を拠点とした本願寺門徒と松平元康の争い。今川氏から独立して三河の支配を強める松平氏が、上宮寺から無理に兵糧を奪ったことを発端とする一向一揆。本多正信らが一揆に加担し、松平家中で家康に反する内紛が起きた。
三河一向一揆で服部半蔵は勝っています。
半蔵は一向宗でしたが、宗派に反いて主君・家康の味方をして戦いました。この出来事で家康から信頼されるようになります。
浅井&朝倉軍と、織田信長の援軍で参陣した徳川家康が姉川(滋賀県長浜市野村町)で激突した合戦。本多忠勝が一騎討ちで真柄直隆と渡り合うなど、徳川軍の活躍が目覚ましく、榊原康政の突撃で朝倉軍は敗走。激戦で姉川は血に染まり、血原や血川橋という地名を残した。
姉川の戦いで服部半蔵は勝っています。
一番槍の働きをしています。偶然に遭遇した数十人の浅井兵を欺き、敵兵の主人と数人を討ち取りました。
西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。
三方ヶ原の戦いで服部半蔵は敗れています。
服部半蔵のターニングポイントになった戦いです。
この戦いで顔と膝を負傷。その状態で、家康の馬を追っていた敵と取っ組みあって倒します。さらに、浜松城に帰還したのち、一人で城外に出て敵の首を取りました。これらの働きで伊賀衆の頭領に抜擢されます。
信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。
小牧・長久手の戦いで服部半蔵は引き分けています。
羽柴軍に攻められる松ヶ島城の滝川雄利に加勢します。忍び100人で構成された鉄砲隊で羽柴秀長に応戦。その後、滝川一益に奪われた蟹江城に向かい、奪還作戦に合流します。
天下統一に迫る豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)を大軍で包囲した合戦。籠城する北条氏直と、隠居の北条氏政、重臣たちは「小田原評定」と揶揄された結論がでない会議を繰り返した。北条父子を黒田官兵衛が説得し、降伏開城した。小田原攻め、小田原の役とも。
小田原征伐で服部半蔵は勝っています。
根来衆50人を率いて十八町口で奮戦。18の首級をあげました。
服部半蔵の詳しい年表と出来事
服部半蔵は西暦1542年〜1597年(天文11年〜慶長元年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1542 | 1 | 服部保長の五男または六男として三河国に生まれる。 |
1548 | 7 | 三河国・大樹寺に入る。 |
1551 | 10 | 出家を拒否して大樹寺から逃走。親元に戻らず兄たちの援助で暮らすようになる。 |
1560 | 19 | 主君・松平元康(徳川家康)が今川氏から独立。 旗本馬廻衆に加わる。 |
1562 | 21 | 初陣。今川領・上ノ郷城攻めに参加。夜襲に成功し戦功を挙げる。 |
1563 | 22 | ”三河一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。 |
1564 | 23 | ”馬頭原合戦”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。 |
1570 | 29 | ”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。一番槍の手柄を挙げる |
1573 | 32 | ”三方ヶ原の戦い”武田信玄との戦に参加。一番槍の手柄を挙げる。伊賀衆150人の頭領になる。 |
1574 | 33 | ”第1次高天神城の戦い”武田勝頼との戦に参加。板垣信通、山県昌景らの兵を攻撃する。 |
1575 | 34 | 長坂信政の娘と結婚。 |
1581 | 40 | 織田家臣・氏家直昌の家来と揉め事を起こし襲撃され、返り討ちにしてしまう。徳川家康の計らいで自害したと偽り浪人になる。 |
1582 | 41 | 織田信長が死亡。【本能寺の変】 明智光秀の軍勢に追われる徳川家康を護衛して畿内を脱出。商人・茶屋四郎次郎と伊賀・甲賀の土豪を懐柔する。【伊賀越え】 ”若御子対陣”空白地となった旧・武田領への侵攻に参加。伊賀衆を率いて獅子吼城を夜襲で落とす。北条方に伊賀衆を放って敵情を探る。【天正壬午の乱】 |
1583 | 42 | 甲斐国・谷村城の守将を任じられる。 |
1584 | 43 | ”小牧・長久手の戦い”羽柴(豊臣)秀吉との戦に参加。松ヶ島城に篭る滝川雄利に加勢し、鉄砲隊で羽柴秀長に応戦する。蟹江城の奪還作戦にも加わる。 |
1590 | 49 | ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。鉄砲奉行として根来衆を率いる。18の首級をあげる。北条家滅亡 徳川家康から遠江国・長上郡を拝領する。 新たに徳川氏に召し抱えられた伊賀同心200人を配下に加える。 |
1592 | 51 | 徳川家康に同行して肥前国・名護屋城に入る。隣接した前田利家の陣営と揉め事が起こり一触即発になる。【文禄の役】 |
1597 | 56 | 武蔵国・江戸服部屋敷で病死。 |

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