おおくぼ ただよ

大久保忠世

1532.?〜 1594.10.28

 
大久保忠世の面白いイラスト
  

大久保忠世は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。松平氏の頃から徳川家康の独立を支えた古参の家臣で、数多の合戦で武功を挙げました。武田氏との抗争では前線基地の二俣城を任され、その後は信濃国の維持に努めます。勇猛果敢な戦いぶりで、織田信長や豊臣秀吉をも感嘆させました。享年63。

大久保忠世は何をした人?このページは、大久保忠世のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと大久保忠世が好きになる「物おじしない度胸と減らず口で小田原城を与えられた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:大久保忠世
  • 出身地:三河国(愛知県)
  • 居 城:二俣城 → 小諸城 → 小田原城
  • 正 室:近藤幸正の娘
  • 子ども:5男 1女
  • 跡継ぎ:大久保忠隣
  • 父と母:大久保忠員 / 不明
  • 大 名:徳川家康

物おじしない度胸と減らず口で小田原城を与えられた

徳川家康の祖父の頃から松平氏に仕える大久保家に生まれた大久保忠世は、猛将ぶりで数々の武功を立てました。

本多忠勝や榊原康政ら徳川四天王にも匹敵する武勇で知られ、秀吉や信長にも一目置かれる存在でした。

大久保忠世は、北条氏の滅亡に伴って屈指の名城・小田原城を与えられます。その背景には、豊臣秀吉の存在がありました。


天下人・秀吉に
気に入られる

1590年の小田原征伐で北条氏を20万という大軍で囲んだ豊臣秀吉は、勝利を確信してすっかり上機嫌でした。大久保忠世の陣もこの大軍の中にありました。

小田原城の向かいにある石垣山に本陣を構えた秀吉は、山を降りて城の包囲の様子を見て回るうちに日が暮れ、腹が空きました。石垣山ちかくの足柄あたりにちょうどよい陣屋があり、秀吉はここで晩飯を食べようと陣中を訪ねました。

足柄に陣を構えていたのは大久保忠世。陣屋に入ってきた秀吉は「おい、飯をくれー」と声をかけます。皆はとつぜん秀吉が現れたことで大慌(おおあわ)て。

しかし、大久保忠世は「お断りします」とキッパリ。相手が天下人と知って ”誰であろうと突然やってきたものに飯の用意はない” と言ってのけたのです。

秀吉は家来に命じて弁当を持ってこさせると、パクパクと食べました。
大久保忠世の陣に秀吉が来ていると聞いた家康が大急ぎで駆けつけると、秀吉は食事を済ませて帰るところでした。

秀吉は家康に「この者の陣屋を借りた。加増してやってくれ」と伝えます。そして、大久保忠世に近づいて「うれしかろ?」と耳打ちして帰りました。

このあと小田原城は秀吉の手に落ち、北条氏が治めていた関東には徳川家康が引っ越してくることになります。その際、陣屋での一件があった大久保忠世には小田原城が与えられました。


織田信長も
惚れ惚れ

これよりずっと前の1575年、長篠(ながしの)の戦いで織田信長の目に飛び込んだのは、猛烈な戦いぶりで徳川軍を牽引する2人の武者でした。
信長から「あれは誰か?」と聞かれた家康は「大久保忠世とその弟・忠佐(ただすけ)です」と答えました。

信長は「鬼神をも(あざむ)く美しさだ。彼らは敵から決して離れない」と感服し、”良い部下を持っている徳川殿にはかなわない” と家康に最大級の賛辞を送ったといいます。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1532年、大久保忠世は三河国(みかわのくに)額田(ぬかた)郡上和田に大久保忠員(ただかず)の長男として生まれます。父や弟と今川配下の松平氏に仕えました。徳川家康の独立に伴う三河武士の一端を担い、武田氏との戦いで活躍。武田氏との国境に面する最前線の二俣城(ふたまたじょう)を拠点に戦陣に立ち続けました。

武田滅亡後は信濃国(しなののくに)・小諸城に移り、家康が養子に迎えた信濃(しなの)国衆・依田康国を後見したほか、真田の離反を鎮圧に向かうなど、武田遺領の統治に尽力しました。

最後と死因

北条氏の滅亡後、豊臣秀吉によって家康が関東移封されると、これに伴って小田原城を拝領します。晩年は城郭の改修などに精を出し、大久保忠世は相模国(さがみのくに)・小田原城で亡くなりました。1594年10月18日、死因は不明。63歳でした。

領地と居城

大久保忠世の領地・勢力図(1590年)

相模国さがみのくに・小田原4万5千石が大久保忠世の領地でした。小田原城は北条氏の象徴でしたが、滅亡に伴い、これを受け継ぎました。

大久保忠世の性格と人物像

大久保忠世は「極端で負けず嫌いな人」です。

絵に描いたような武辺者で、やられてもただでは起き上がりません。敵兵に崖下に落とされ、すぐに()い上がると崖の上で待ち伏せる敵を3人いっぺんに斬ったことがあります。

豪快な性格ですが人情味があり、三河一向一揆をきっかけに家康のもとを出奔した本多正信が置き去りにした妻子の面倒をみていました。
ずいぶん経ってから、正信の帰参を家康に許してもらう協力もしています。

倹約を心がけており、お金がなくなった時に備えて毎月7日間なにも食べない断食(だんじき)を習慣としていました。この『七食(ななくわ)』の習慣は最晩年まで続けています。

大久保忠世の物と伝わる甲冑『鉄黒漆塗十八間筋兜縦矧桶側胴具足(てつくろうるしぬりじゅうはちけんすじかぶとたてひきおけどうぐそく)』が現存しています。大きな吹き返しの兜と、胴に描かれた龍がアクセントになっています。

能力を表すとこんな感じ

大久保忠世の能力チャート

度胸に裏打ちされた個の強さが大久保忠世の魅力です。大胆な奇襲を成功させる、敵将を調略するなど知恵も回ります。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する大久保忠世の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

大久保忠世の面白い逸話やエピソード

天下人・秀吉の戯言に皮肉で返す

大久保忠世に小田原城が与えられたすぐあとのこと、忠世は豊臣秀吉に招かれて会いに行きます。その席で秀吉からこんなことを(たず)ねられました。

秀吉「お前は徳川殿の重要な家臣。だから小田原城を与えるように申した。わしもお前を高く評価している」

忠世「ありがとうございます」

秀吉「ところで、もしわしが徳川殿と争うことになったら、お前はどうする?」

秀吉は、このように人を試すような戯言(ざれごと)(冗談)でたびたび遊びました。皆が秀吉の顔色をうかがう様子が面白かったのです。

ところが、忠世は迷うことなくこう返します。

忠世「そりゃ殿下にご恩はありますが、それがしは徳川のもんですから殿下と戦いますよ。で、徳川が勝ちます」

秀吉「なんと!」

忠世「すると殿下は関白(かんぱく)の地位も天下も失います。つまり殿下のお命も、それがし次第ということになりましょうな」

秀吉は呆気(あっけ)に取られたのちに笑い出し「血気盛んなジジイだ。まぁ飲め」と、忠世と酒を()み交わしたといいます。

大久保忠世の有名な戦い

蟹江城の戦い かにえじょうのたたかい 1555.? ○ 今川軍? vs 織田軍? ●

織田領の蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)をめぐって行われた合戦。今川方として参戦した三河の松平勢が活躍。この戦いで武功を挙げた大久保忠世ほか阿部忠政らは蟹江七本槍と呼ばれた。その後、蟹江城は織田信長が今川氏から奪還し、再び織田領となった。

蟹江城の戦いで大久保忠世は勝っています。

大久保忠世のターニングポイントになった戦いです。
父・忠員(ただかず)や弟・忠佐(ただすけ)、叔父や従兄(いとこ)とともに『蟹江(かにえ)七本槍』と称賛される働きで勝利に貢献(こうけん)しました。

三河一向一揆 みかわいっこういっき 1563.?〜 1564.2.27 ● 一向一揆? vs 松平軍? ○

上宮寺や勝鬘寺(ともに愛知県岡崎市)などの寺社を拠点とした本願寺門徒と松平元康の争い。今川氏から独立して三河の支配を強める松平氏が、上宮寺から無理に兵糧を奪ったことを発端とする一向一揆。本多正信らが一揆に加担し、松平家中で家康に反する内紛が起きた。

三河一向一揆で大久保忠世は勝っています。

この戦いで片目を失明しています。敵方の友人に首を取られそうになり「主君(元康)と戦うお前は俺の首を誰に持っていくのだ?」と聞くと「たしかに首を届けても恩賞をくれる主君は一揆勢にいない」と敵兵も笑ってしまい、命拾いしました。

三方ヶ原の戦い みかたがはらのたたかい 1573.1.25 ○ 武田軍3万 vs 織田&徳川軍1万5千 ●

西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。

三方ヶ原の戦いで大久保忠世は敗れています。

大久保忠世は、わずか100ほどの手勢で天野康景と共に犀ケ崖(さいががけ)を攻めて鉄砲で夜襲をかけています。武田勢を混乱させて崖下に落とし、信玄に「勝ちてもおそろしき敵かな」と言わしめました。

長篠の戦い ながしののたたかい 1575.6.29 ● 武田軍1万5千 vs 織田&徳川軍3万8千 ○

長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。

長篠の戦いで大久保忠世は勝っています。

快勝を収めたこの戦いで、忠世と弟・忠佐(ただすけ)の戦いぶりが織田信長から称賛されます。大久保隊は鉄砲足軽を率いて敵将・山県昌景と終始接触して戦い、退けています。この武功で家康から法螺貝(ほらがい)の褒美をもらいました。

高天神城の戦い たかてんじんじょうのたたかい #1:1574.5.?〜 7.6 ○ 武田軍2万5千 vs 小笠原&徳川軍1万1千 ● #2:1581.1.?〜 4.28 ○ 徳川軍5千 vs 武田軍6百 ●

高天神城(静岡県掛川市)をめぐって、武田氏と徳川氏が2回争った。武田勝頼の大軍によって、少数で守る徳川軍はあっけなく落城。その後、徳川家康が奪還に乗り出し、包囲戦で飢えさせた。岡部元信の突撃も虚しく、本多忠勝らによって武田軍は掃討された。

高天神城の戦いで大久保忠世は勝っています。

石川康通の陣に突撃した武田方の岡部元信に応戦し、忠世の隊は688の首級をあげる活躍をしました。

小田原征伐 おだわらせいばつ 1590.5.6 〜 8.4 ○ 豊臣軍21万 vs 北条軍5万6千 ●

天下統一に迫る豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)を大軍で包囲した合戦。籠城する北条氏直と、隠居の北条氏政、重臣たちは「小田原評定」と揶揄された結論がでない会議を繰り返した。北条父子を黒田官兵衛が説得し、降伏開城した。小田原攻め、小田原の役とも。

小田原征伐で大久保忠世は勝っています。

陣中を訪ねてきた豊臣秀吉とのやりとりが、この後で小田原城を与えられるきっかけになっています。

大久保忠世の詳しい年表と出来事

大久保忠世は西暦1532年〜1594年(天文元年〜文禄3年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

15321大久保忠員の嫡男として三河国に生まれる。
155524”蟹江城攻め”織田領・蟹江城攻めに参加。活躍し蟹江七本槍と称される。
156029”桶狭間の戦い”織田信長との戦に参加。
156332”三河一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。片目を負傷。
156534徳川氏から離反した本多正信の妻子を保護する。
156635旗本先手役に抜擢される。
156837今川領・遠江国攻めに参加。
157039本多正信の復帰をとりなす。
”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。
157342”三方ヶ原の戦い”武田信玄との戦に参加。天野康景と犀ケ崖を奇襲する。
157443武田領・犬居城攻めに参加。
157544”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。
遠江国・二俣城に入り、武田勝頼に備える。
158150”第2次高天神城の戦い”武田勝頼との戦に参加。大須賀康高と岡部元信に応戦。688の首級をあげる。
158251”若御子対陣”空白地となった旧・武田領への侵攻に参加。諏訪頼忠を調略し信濃国ルートの確保に成功。武田遺臣を味方に引き入れる献策をする。【天正壬午の乱】
158352信濃国・小諸城に入る。依田康国を後見する。
158554”第1次上田合戦”鳥居元忠、平岩親吉と真田討伐に向かうが敗れる。
159059”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。北条家滅亡
徳川家康から相模国・小田原を拝領する。
相模国・小田原城を居城にする。
159463相模国・小田原城で死去。
戦国時代で大久保忠世が生きた期間の表
大久保忠世の顔イラスト
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