血天井のなぜ?鳥居元忠ら1800人が全滅した壮絶な戦いの遺構

京都の養源院などの寺院には、天井板に手形や足形が残る『血天井』と呼ばれる廊下があります。観光スポットにもなっている血天井の廊下には、なぜ手形や足形が浮かんで見えるのでしょう?これは、激戦で命を散らした武士たちの血痕が残っているものでした。血天井に刻まれた記憶は、誰のものか?探ってみましょう。
血天井が存在する背景と天井に使われている深い理由
『血天井』とは、京都のお寺などに残る血痕がついた天井のこと。
もとは伏見城などの床板や縁板として使われていた板でしたが、戦いのすえ生々しい結婚が残りました。
大勢の血が染み込んだ板は、なんど洗っても、削っても血痕が消えることはなかったといい、命をかけて戦った者たちへの供養として、これを天井板にしたのが血天井といわれています。
一般的に、血天井に使われたと伝わっているのは、関ヶ原の戦いの
伏見城の戦いと鳥居元忠が有名
関ヶ原の戦いの前哨戦。西軍・宇喜多秀家らが、伏見城(京都府京都市伏見区)を攻めた。守将の鳥居元忠は、20倍の兵を相手に頑強に戦ったが、鈴木重朝に一騎討ちで敗れた。城兵は全滅し、籠城軍の血で染まった床板は、複数の寺で再利用され、血天井として知られる。
徳川家康と石田三成による関ケ原の戦いは、1600年に起こった天下分け目の決戦でした。
豊臣秀吉の死後、天下をねらう家康と、それを阻もうとする三成が関ケ原で激突する直前、京都の伏見城では、鳥居元忠が率いる決死隊が壮絶な戦いをしました。
徳川家康から伏見城の守備を任された鳥居元忠でしたが、城兵1千8百に対して4万の敵が押し寄せてきます。
元忠らは、20倍を超える兵力を10日間も足止めし、家康が関ケ原に向かう時間を稼いだのち、全滅しました。
伏見城の勇士たちが奮闘したこともあって、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、鳥居元忠の忠義に心から感謝したといいます。
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どうして血天井は
足形があるのか
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伏見城が落城する寸前、元忠はすでに手足も動かぬほど傷ついていましたが、敵将・鈴木重朝に一騎討ちを挑み、討ち死にしました。
敗戦が決定的になり、生存していた守備兵380人は伏見城で自害。一人も敵に降ることなく全員が家康への忠義に散ったのです。
家康は、伏見城で戦死した家臣の供養として、おびただしい血痕がついた伏見城の床板を京都にあるいくつかの寺に運ばせ、天井板とさせました。
見上げた忠義心であるこの者たちを、”決して誰にも踏まれることがないように” と、天井板とするよう厳命したといいます。
こうして、伏見城の遺構が現在に伝わる血天井となったのです。
最後まで戦い抜いた鳥居元忠の血痕がしみついた畳は、江戸城の
血天井があるのは京都などのお寺
おもに京都府8か所に集中しているほか、大阪府2か所、岐阜県1か所、徳島県1か所、合計12の寺院に血天井があります。
血天井の伝承があるほとんどが伏見城のものとされています。
伏見城の床板が使われている寺
1600年の伏見城の戦いのものと伝わる血天井が最も多く、京都府にある8つすべてに伏見城の遺構が使われています。
養源院(京都市)
養源院は、京都府京都市東山区にあるお寺です。
本堂の血天井は88メートルの長さがあり、最も有名な血天井として知られています。
浅井長政の長女で豊臣秀吉の側室・
1594年に創建されましたが、1619年に雷が落ちて焼失してしまいます。その後、浅井長政の三女で徳川秀忠の正室・
徳川氏と敵対した
あくまでも幕府の公的事業ではなく、
江が養源院の再建を願った背景には、父・浅井長政とこれを弔った姉・
宝泉院(京都市)
宝泉院は、京都府京都市左京区にあるお寺です。
正伝院(京都市)
正伝院は、京都府京都市北区にあるお寺です。
もともとは伏見城に本丸御殿として建てられたものが移築されました。
源光庵(京都市)
源光庵は、京都府京都市北区にあるお寺です。
ここにも伏見城の床板が使われ、黒ずんだ足跡が残る血天井が残っています。
興聖寺(宇治市)
法堂は伏見城から移築、改築されました。伏見城の床板を天井板にした血天井があります。
天球院(京都市)
天球院は、京都府京都市右京区にある
狩野派の画がのこる寺院として有名ですが、上間一の間に面した廊下は伏見城の遺構が使われた血天井になっています。
神應寺(八幡市)
書院の廊下には、伏見城の遺構が使われていると伝わっていますが、定かではありません。
栄春寺(京都市)
栄春寺は、京都府京都市伏見区にあるお寺です。
観音堂の天井に伏見城の床板が使われています。こちらの観音堂は非公開のため、血天井は見られません。
岐阜城の床板が使われている寺
1600年の岐阜城の戦いでは、38人が城内で自害しました。この者たちを弔うため、伏見城と同じく岐阜城の床板が血天井として伝わっています。
崇福寺(岐阜市)
織田家の菩提寺として知られる
池田城の床板が使われている寺
こちらは1507年の室町幕府管領・細川氏の内乱のおり、細川高国によって攻め落とされた池田城のものとされています。
大広寺(池田市)
大広寺は、大阪府池田市にあるお寺です。
血天井は本堂玄関前にあります。池田城が落城する際に池田貞正が自害した床板が張られています。
そのほか血天井の伝承がある寺
以下は、その場所で起きた出来事がそのまま伝えられている血天井です。こちらは床板ではなく縁側の遺構が血天井となっています。
常光寺(八尾市)
常光寺は、大阪府八尾市にあるお寺です。
奈良時代、聖武天皇の
丈六寺(徳島市)
長宗我部元親が新開実綱を丈六寺に呼び出して謀殺した際の縁側が、徳雲院前の回廊に血天井として用いられています。