血天井のなぜ?鳥居元忠ら1800人が全滅した壮絶な戦いの遺構

血天井のなぜ?鳥居元忠ら1800人が全滅した壮絶な戦いの遺構

京都の養源院などの寺院には、天井板に手形や足形が残る『血天井』と呼ばれる廊下があります。観光スポットにもなっている血天井の廊下には、なぜ手形や足形が浮かんで見えるのでしょう?これは、激戦で命を散らした武士たちの血痕が残っているものでした。血天井に刻まれた記憶は、誰のものか?探ってみましょう。

血天井が存在する背景と天井に使われている深い理由

血天井』とは、京都のお寺などに残る血痕(けっこん)がついた天井のこと。

もとは伏見城(ふしみじょう)などの床板(ゆかいた)縁板(えんいた)として使われていた板でしたが、戦いのすえ生々しい結婚(けっこん)が残りました。

大勢の血が染み()んだ板は、なんど洗っても、(けず)っても血痕(けっこん)が消えることはなかったといい、命をかけて戦った者たちへの供養として、これを天井板にしたのが血天井といわれています。

一般的(いっぱんてき)に、血天井に使われたと伝わっているのは、関ヶ原の戦いの前哨戦ぜんしょうせんである伏見城(ふしみじょう)の戦いと、岐阜城の戦いにおける城内の床板(ゆかいた)です。

伏見城の戦いと鳥居元忠が有名

伏見城の戦い ふしみじょうのたたかい 1600.8.26 〜 9.8 ○ 西軍4万 vs 東軍1千8百 ●

関ヶ原の戦いの前哨戦。西軍・宇喜多秀家らが、伏見城(京都府京都市伏見区)を攻めた。守将の鳥居元忠は、20倍の兵を相手に頑強に戦ったが、鈴木重朝に一騎討ちで敗れた。城兵は全滅し、籠城軍の血で染まった床板は、複数の寺で再利用され、血天井として知られる。

徳川家康と石田三成による関ケ原の戦いは、1600年に起こった天下分け目の決戦でした。

豊臣秀吉の死後、天下をねらう家康と、それを(はば)もうとする三成が関ケ原で激突(げきとつ)する直前、京都の伏見城(ふしみじょう)では、鳥居元忠が率いる決死隊が壮絶(そうぜつ)な戦いをしました。

徳川家康から伏見城(ふしみじょう)の守備を任された鳥居元忠でしたが、城兵1千8百に対して4万の敵が()し寄せてきます。

元忠らは、20倍を()える兵力を10日間も足止めし、家康が関ケ原に向かう時間を(かせ)いだのち、全滅(ぜんめつ)しました。

伏見城(ふしみじょう)の勇士たちが奮闘(ふんとう)したこともあって、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、鳥居元忠の忠義に心から感謝したといいます。


どうして血天井は
足形があるのか

伏見城(ふしみじょう)が落城する寸前、元忠はすでに手足も動かぬほど傷ついていましたが、敵将・鈴木重朝に一騎討(いっきう)ちを(いど)み、討ち死にしました。

敗戦が決定的になり、生存していた守備兵380人は伏見城(ふしみじょう)で自害。一人も敵に降ることなく全員が家康への忠義に散ったのです。

家康は、伏見城(ふしみじょう)で戦死した家臣の供養として、おびただしい血痕(けっこん)がついた伏見城(ふしみじょう)床板(ゆかいた)を京都にあるいくつかの寺に運ばせ、天井板とさせました。

見上げた忠義心であるこの者たちを、”決して(だれ)にも()まれることがないように” と、天井板とするよう厳命したといいます。

こうして、伏見城(ふしみじょう)の遺構が現在に伝わる血天井となったのです。

鳥居元忠のイラスト
鳥居元忠のハナシを読む

鳥居元忠は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。少年時代から徳川家康に仕え、旗本衆を率いた歴戦の猛者です。戦場で負った怪我により、左足が不自由でしたが、生涯にわたって戦場に立ち続けました。家康からの信頼が厚い忠義の士で、関ヶ原の前哨戦となった伏見城で、壮絶な討死をしました。享年62。

最後まで戦い()いた鳥居元忠の血痕(けっこん)がしみついた(たたみ)は、江戸城の伏見櫓ふしみやぐらの階上に置かれたのち、明治以降は元忠をまつる精忠神社に埋納(まいのう)されたそうです。

血天井があるのは京都などのお寺

おもに京都府8か所に集中しているほか、大阪府2か所、岐阜県1か所、徳島県1か所、合計12の寺院に血天井があります。

血天井の伝承があるほとんどが伏見城(ふしみじょう)のものとされています。

伏見城の床板が使われている寺

1600年の伏見城(ふしみじょう)の戦いのものと伝わる血天井が最も多く、京都府にある8つすべてに伏見城(ふしみじょう)の遺構が使われています。

養源院(京都市)

養源院は、京都府京都市東山区にあるお寺です。
本堂の血天井は88メートルの長さがあり、最も有名な血天井として知られています。

浅井長政の長女で豊臣秀吉の側室・淀殿よどどのが、父の菩提ぼだい(とむら)うために建てました。養源院とは、浅井長政の法名『養源院天英宗清ようげんいんてんえいそうせい』からとっています。

1594年に創建されましたが、1619年に(かみなり)が落ちて焼失してしまいます。その後、浅井長政の三女で徳川秀忠の正室・ごうによって1621年に再建されました。

徳川氏と敵対した淀殿よどどのが建てたということもあって、養源院の再建は徳川家臣に反対されましたが、伏見城(ふしみじょう)床板(ゆかいた)を天井板とすることで、鳥居元忠ら勇士を供養する名目で賛同を得ます。

あくまでも幕府の公的事業ではなく、ごうの個人事業という形で再建された養源院には、現在も血天井が残っています。

(ごう)が養源院の再建を願った背景には、父・浅井長政とこれを(とむら)った姉・淀殿よどどのへの思いがこめられています。

宝泉院(京都市)

宝泉院は、京都府京都市左京区にあるお寺です。
額縁がくぶち庭園が有名な人気の観光スポットです。江戸時代初期に再建された書院の廊下(ろうか)伏見城(ふしみじょう)床板(ゆかいた)が使用され、血天井となっています。

正伝院(京都市)

正伝院は、京都府京都市北区にあるお寺です。
もともとは伏見城(ふしみじょう)に本丸御殿(ごてん)として建てられたものが移築されました。枯山水かれさんすい庭園の縁側(えんがわ)の上に伏見城(ふしみじょう)の遺構が使われた血天井があります。

源光庵(京都市)

源光庵(げんこうあん)は、京都府京都市北区にあるお寺です。
ここにも伏見城(ふしみじょう)床板(ゆかいた)が使われ、黒ずんだ足跡(あしあと)が残る血天井が残っています。

興聖寺(宇治市)

興聖寺こうしょうじは、京都府宇治市にあるお寺です。
法堂は伏見城(ふしみじょう)から移築、改築されました。伏見城(ふしみじょう)床板(ゆかいた)を天井板にした血天井があります。

天球院(京都市)

天球院は、京都府京都市右京区にある妙心寺みょうしんじのなかにある塔頭たっちゅう寺院です。
狩野派(かのうは)の画がのこる寺院として有名ですが、上間一の間に面した廊下(ろうか)伏見城(ふしみじょう)の遺構が使われた血天井になっています。

神應寺(八幡市)

神應寺じんのうじは、京都府八幡市(はちまんし)にあるお寺です。
書院の廊下(ろうか)には、伏見城(ふしみじょう)の遺構が使われていると伝わっていますが、定かではありません。

栄春寺(京都市)

栄春寺は、京都府京都市伏見区(ふしみく)にあるお寺です。
観音堂の天井に伏見城(ふしみじょう)床板(ゆかいた)が使われています。こちらの観音堂は非公開のため、血天井は見られません。

岐阜城の床板が使われている寺

1600年の岐阜城の戦いでは、38人が城内で自害しました。この者たちを(とむら)うため、伏見城(ふしみじょう)と同じく岐阜城の床板(ゆかいた)が血天井として伝わっています。

崇福寺(岐阜市)

崇福寺そうふくじは、岐阜県岐阜市にあるお寺です。
織田家の菩提寺(ぼだいじ)として知られる崇福寺そうふくじの本堂には、岐阜城の天守の床板(ゆかいた)を天井に使っている廊下(ろうか)があります。黒ずんだ血痕(けっこん)が残る血天井となっています。

池田城の床板が使われている寺

こちらは1507年の室町幕府管領・細川氏の内乱のおり、細川高国によって()め落とされた池田城のものとされています。

大広寺(池田市)

大広寺は、大阪府池田市にあるお寺です。
血天井は本堂玄関前(げんかんまえ)にあります。池田城が落城する際に池田貞正が自害した床板(ゆかいた)が張られています。

そのほか血天井の伝承がある寺

以下は、その場所で起きた出来事がそのまま伝えられている血天井です。こちらは床板(ゆかいた)ではなく縁側(えんがわ)の遺構が血天井となっています。

常光寺(八尾市)

常光寺は、大阪府八尾市(やおし)にあるお寺です。
奈良時代、聖武天皇の勅願ちょくがんで行基が創建した常光寺にも血天井があります。1615年の大坂夏の(じん)で、藤堂高虎が首実検を行ったとされる縁側(えんがわ)西廊下(にしろうか)の天井板に使われています。

丈六寺(徳島市)

丈六寺じょうろくじは、徳島県徳島市にあるお寺です。
長宗我部元親が新開実綱を丈六寺(じょうろくじ)に呼び出して謀殺(ぼうさつ)した際の縁側(えんがわ)が、徳雲院前の回廊(かいろう)に血天井として用いられています。

お仕事のご依頼はこちら