方広寺鐘銘事件「国家安康」なにが問題?わかりやすくしたまとめ

『方広寺鐘銘事件』は、豊臣秀頼が方広寺の大仏殿を再建した際、梵鐘の銘文にあった「国家安康」の文字が徳川家康を呪っていると問題視された事件です。1614年の夏に起こった方広寺鐘銘事件を発端として、大坂の陣が起こり、豊臣氏の滅亡につながりました。なぜ、方広寺鐘銘事件は起きたのか?まとめてみましょう。
方広寺鐘銘事件が起こった背景と理由
『方広寺鐘銘事件』は、豊臣氏と徳川氏の関係が悪化するきっかけとなった1614年の出来事です。『京都大仏鐘銘事件』ともいわれます。
方広寺とは、1567年に松永久秀と三好三人衆の戦いによって焼失してしまった東大寺大仏殿にかわるものとして、豊臣秀吉が発願した毘盧遮那仏を安置するために1595年に創建されました。
秀吉は、民衆から刀狩で没収した刀剣を鎹などの材料にして木造の仏像をつくりましたが、開眼供養が行われる前に1596年の慶長伏見大地震で壊れてしまいました。
大仏殿は倒壊を免れていましたので、秀吉が病で亡くなったのち、1603年に今度は丈夫な銅で大仏の再建が行われます。
ところが、銅の鋳造中の火災で大仏殿まで焼失してしまいました。
方広寺の大仏問題が頓挫したのと同じころ、征夷大将軍になった徳川家康が江戸幕府をひらきます。
豊臣の天下だったはずの世は、いつしか「徳川の天下」という流れになっていました。
大仏殿の再建が行われる
徳川家康の勧めもあって、秀吉の追善供養として息子の豊臣秀頼が方広寺大仏殿の再建をすることになり、ふたたび銅製の大仏づくりがはじまります。
このとき徳川家康には、方広寺大仏殿の再建で散財させ、豊臣氏を弱体化させるねらいがありました。
立場は徳川が上になっていましたが、家康は豊臣のブランドが怖かったのです。
このような背景のなか、方広寺の大仏・大仏殿が再建され、1614年7月に梵鐘(釣り鐘)が完成。南禅寺の文英清韓が鐘銘文をしたためました。
しかし、この鐘銘文には家康を呪う不吉な文言があると指摘され、大問題に発展してしまうのでした。
鐘銘文のなにが問題だったのか?
梵鐘に彫られた銘文から、問題の箇所を抜粋します。
… 功用無量 所庶幾者 国家安康 四海施化 万歳伝芳 君臣豊楽 子孫殷昌 佛門柱礎 …
徳川家康は儒学者の林羅山らに釣り鐘の銘文を解読させました。
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家康を
呪っている!
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すると『国家安康』が「家康の名を割っていて演技が悪い!わざとだろ!呪っているな!」と、徳川方が怒り出します。

それに続く『君臣豊楽』は、豊臣の文字が並んでいて縁起が良いと解釈され、徳川家臣・本多正信から「豊臣を君主として世を楽しむという意味だろう」と難癖をつけられます。
鐘銘文のほかにも「開眼供養の日取りが気に入らん」「座席順がおかしい」「徳川が派遣した大工の名前が入っていない」など、次から次へといちゃもんをつけられてしまいました。
方広寺大仏殿の一件を担当していた豊臣家臣・片桐且元は、なんとか徳川方の機嫌を損ねないように対応しましたが、焼け石に水。
豊臣家にとって、悪い解釈がされたまま最悪の方向へと向かっていくのでした。
鐘銘文を見た僧たちの見解
江戸中期の資料『摂戦実録』には、方広寺の鐘銘文を五山の僧たちに見せて意見を求めた際の見解が記されています。
東福寺の僧
「天子・執政・将軍の諱は避けるべきで見逃せることではない」
天龍寺の僧
「銘文の言葉が諱にふれることは承知できない。ただし、遠慮して避けるのが道理かは忘れた」
南禅寺の僧
「大臣の諱の二字を四言詩に分けて書くのは前代未聞である」
相国寺の僧
「銘文中に家康の諱を書いたのは好ましくないと思う。ただし、武人のしきたりは知らないが、五山においてはある人物について書くときに諱を除いて書くしきたりはない」
建仁寺
「征夷大将軍の諱を侵したことは好ましくない」
諱とは、実名のこと。『国家安康』は、高位の人物である徳川家康の名を意味しており、好ましい表現ではないとしているのが五山の僧たちの見解です。
徳川家康は五山の僧を巻きこむことで、豊臣方の失態を強く印象づけました。
方広寺鐘銘事件の徳川家康の思惑
徳川サイドから見た場合、方広寺鐘銘事件にはどうだったのでしょう?
大騒ぎぶりからして『国家安康』と『君臣豊楽』の文字が釣り鐘にバーンと彫ってあったのかというとそうではありません。
鐘銘文はとても長く、釣り鐘の側面に小さくびっしりと彫られていました。そのなかからよく見つけたなというレベルです。
このことを発端に、徳川家康は豊臣方に不備があるとしていちゃもんをつけます。
豊臣方を煽り、怒らせたかったのです。
なぜ家康は豊臣氏を煽った?
豊臣秀吉によって天下統一がされたとき、徳川家康は豊臣氏の家臣でした。しかし、秀吉が亡くなったことで家康に天下取りのチャンスがめぐって来ます。
1600年の関ヶ原の戦いを制した徳川家康は、戦後処理のどさくさで豊臣直轄領を大幅に減らし、豊臣秀頼には大坂城とその周辺しか残しませんでした。
そして、家康は1603年に征夷大将軍に就任し、天下権力を我がものとします。
とはいえ、この時点でまだ豊臣家は健在。
わかりやすく言えば、”力の徳川” と ”人気の豊臣” という風潮でした。
完全に徳川の天下にするためには、豊臣氏の存在がどうしても邪魔だったのです。
そこで、豊臣氏を攻める大義名分を得るために、方広寺の鐘銘文を利用しました。
方広寺鐘銘事件のあと大坂の陣が勃発
1614年7月の方広寺鐘銘事件に端を発した徳川氏と豊臣氏の不和は収まらず、以心崇伝と片桐且元が協議を行うものの、家康は機嫌を損ねたままで会ってもくれません。
且元の交渉が長引いていることに業を煮やした淀殿(豊臣秀頼の母)は、大蔵卿局(大野治長の母)を使者として家康のもとに向かわせます。
すると、家康は大蔵卿局には面会し、何事もなかったように機嫌よく話しました。且元の報告にあった家康とはまるで別人です。
大坂城に帰った片桐且元は、徳川氏との関係を修復すべく3つの方策を提言します。

いずれも豊臣サイドとしては受け入れ難いものでした。
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片桐且元の追放
いざ、大坂攻めへ
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このような方策をおめおめと提言する片桐且元は裏切り者と疑われ、やがて豊臣家から追放されます。
じつは、これこそ家康が望んでいた展開でした。
家康が、且元とはまるで違う対応で大蔵卿局に接したのは、且元が嘘をついているという動揺を与えて豊臣方を混乱させたかったから。
豊臣内部が混乱していると判断した家康は、諸大名に大坂城への出兵を命じます。
この知らせを聞いた豊臣サイドも、これは一大事と大坂城の金銀をつかって牢人たちを寄せ集めます。
こうして大坂冬の陣が勃発してしまうのでした。
大坂冬の陣からの和睦
方広寺鐘銘事件を発端に、徳川氏と豊臣氏がついに衝突。徳川家康は20万の大軍で大坂城(大阪府大阪市中央区)に迫った。豊臣秀頼は牢人を集めて籠城。真田幸村が考案した真田丸で徳川勢を撃退した。しかし、徳川軍の大砲の威力を前に、豊臣氏は和睦を申しでた。
方広寺鐘銘事件から半年も経たないうちに大坂城攻めが行われますが、大坂冬の陣では決着がつかず、和睦・停戦となりました。
兵力で劣る豊臣方は、次のような条件で和睦を申し出ました。
1. 大坂城は本丸を残して二の丸と三の丸を破壊し、南堀・西堀・東堀を埋める。
2. 淀殿の代わりに大野治長と織田有楽斎を人質に出す。
徳川家康は和睦を受け入れますが、双方ともこれで終わるとは思っていませんでした。
結局、豊臣家は攻め滅ぼされる
ひとまず講和は成立しましたが、家康はすぐに大砲の製造を命じ、いくさ支度をはじめます。
一方の豊臣方では、大坂城に集めた牢人たちが京や伏見で放火などの乱暴をはたらき、穏やかではありません。
通説では、大坂城の堀を埋める際、予定していない堀まで徳川方が埋めてしまい、これに反発した豊臣方が掘り返すといったトラブルがあったともされ、一触即発の状態が続いていました。
徳川家康は、豊臣方に大坂城の牢人を解雇または豊臣秀頼が大坂城から引っ越すことを要求します。
しかし、牢人を解雇してしまって徳川方に攻められたら一巻の終わりです。豊臣サイドはこれを拒否しました。
武装を解かないのなら、もう一度戦うまで。1615年5月に大坂夏の陣が勃発しました。
大坂冬の陣から半年後、徳川家康による豊臣氏の殲滅戦。大坂城付近(大阪府藤井寺市、阿倍野区など)で激しい局地戦が行われた。毛利勝永が奮闘し、徳川本陣に真田幸村が決死の突撃をしたが、数で勝る徳川軍が押し切った。大坂城は落城。豊臣秀頼は出陣の機会なく自害した。
”国家安康” にはじまった方広寺鐘銘事件から、わずか1年足らずで豊臣家は滅亡。徳川家に仇なすものはいなくなりました。
この結果から、方広寺鐘銘事件が豊臣家を滅ぼす口実とされたことは明らかで、ズルくて賢い晩年の徳川家康が ”狸親父” と呼ばれる出来事のひとつとなっています。