尼子経久
1458.12.25 〜 1541.11.30

尼子経久は、現在の島根県東部にあたる出雲国の武将・大名です。京極氏から土地を横領して独立を図りますが、出雲守護代の立場を追われます。その後、謀略を駆使して月山富田城を奪って下克上を果たすと、山名氏や大内氏と領土を争い、諸国に触手を伸ばします。影響力は中国地方11か国にも及びました。享年84。
- 尼子経久の武将タイプ
- 奸雄
尼子経久は何をした人?このページは、尼子経久のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと尼子経久が好きになる「牢人に落ちぶれるも下克上で国を奪って謀聖と呼ばれた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:尼子経久
- 幼 名:又四郎
- あだ名:謀聖、鬼神、雲州の狼、十一州の太守
- 官 位:民部少輔、伊予守
- 幕 府:出雲守護
- 戦 績:19戦 12勝 4敗 3分
- 出身地:出雲国(島根県)
- 領 地:伯耆国、出雲国、隠岐国、備後国
- 居 城:月山富田城
- 正 室:吉川夫人(吉川経基の娘)
- 子ども:4男 3女
- 跡継ぎ:尼子晴久
- 父と母:尼子清定 / 真木氏
- 大 名:京極政経 → 尼子氏4代当主=独立
牢人に落ちぶれるも下克上で国を奪って謀聖と呼ばれた
尼子経久とは、冴えわたる謀略で『謀聖』『謀将』と称され、毛利元就や宇喜多直家とともに『中国の三大謀将』に挙げられます。
尼子氏は戦国時代中期、中国地方に一大勢力を築いた勢力ですが、そもそも尼子氏とは室町幕府のお偉いさんである京極氏に仕える守護代の家柄にすぎませんでした。
尼子氏が勢力を拡大したのは、乱世の混乱に乗じた尼子経久が京極氏に下克上を果たし、出雲国を乗っ取って戦国大名になったのがきっかけでした。
ちゃっかり戦国大名に成り上がった尼子経久ですが、その人生は波乱万丈。一度は守護代の立場も失い、牢人(無職フリーター)にまで落ちぶれます。
というのも、京極氏の土地をしれっと横領して自分のものにするなど少々やりすぎてしまい、出雲国人たちの反感をかって1484年に月山富田城を追い出されてしまったのでした。
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新年のパーティで
下克上を果たす
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尼子経久が追放された月山富田城では、毎年恒例の新年の宴がひらかれていました。これに鉢屋衆という芸能集団が呼ばれ、宴を盛り上げます。
尼子経久は鉢屋賀麻党の党首・鉢屋弥之三郎と共謀し、劇団員に扮して城にしのびこみました。

1486年の元日、午後3時。
尼子経久と劇団員70名ほどは、太鼓やお囃子の音とともに賑やかに大手門をくぐります。
城の皆が見物に集まったそのとき、尼子経久の合図で城内に火が放たれ、衣装の下に武具を着こんだ賀麻党の劇団員は、一斉に見物人に襲いかかりました。
月山富田城は正月ムードから一変して大混乱となり、尼子経久に代わって出雲守護代になっていた城主・塩冶掃部介は追いつめられて自害しました。
こうして月山富田城を奪い返した尼子経久は、ふたたび権力を得ます。
鉢屋衆は、これ以降も奇襲や騙し討ちで暗躍し「尼子の行くところ鉢屋あり」と謳われ、尼子経久の謀略を実行する特殊部隊となりました。
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どうやって
支配を進めた?
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出雲の守護は京極氏でしたが、身分が高い京極政経はずっと京で暮らしているため、出雲国は守護大名が在任せず、守護代が派遣される特殊なケースでした。
守護代として派遣された尼子経久は、このような事情を熟知しており、これを逆手にとった婚姻政策によって宍道氏や塩冶氏ら有力な国人を下部に組み入れて派閥を形成します。
そして、1500年に起こった『京極騒乱』によって、京でのお家騒動から逃れてきた京極政経を保護し、恩を売ることで主従の逆転に成功。
政経の死後は、その孫・吉童子丸を預かりますが、ほどなくして行方不明にしてしまいます。
こうして京極氏の痕跡をカジュアルに消し、出雲守護大名の座を手に入れました。
お隣りの国、伯耆守護・山名澄之を操り、山名氏を牛耳るなど好き放題。隙あらば他国にもどんどん進出していったのです。
これには国人衆を束ねるために侵略戦争を繰り返したという背景があり、領地を与えることで統治を図りましたが、実利益がないとあっさり裏切られる稀薄な関係に悩みました。
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鮮やかすぎる
大永の五月崩れ
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尼子経久は1524年5月に伯耆国に軍事侵攻します。『大永の五月崩れ』と呼ばれる電撃的な作戦で、山名領を瞬く間に制圧した神業として伝わっています。
伯耆に攻めこむと、米子城、淀江城、天万城、尾高城、不動ガ嶽城、八橋城を一朝にして攻め落としました。
朝、目を覚ました山名澄之は外の様子をみて、黒煙と尼子軍の旗が眼前を埋め尽くす光景に愕然としたといいます。
続いて倉吉、岩倉城、堤城、羽衣石城まで一挙に攻略した尼子経久によって、伯耆国は一日で尼子氏のものとなりました。
たった一日で一国を制圧したとして『伯耆民談記』に圧巻の様子が書かれていますが、さすがにこれはフィクション。
尼子経久の伯耆支配は、実際には孫・晴久を伯耆守護代に就かせるなど、10数年におよぶ用意周到な政治的侵略によるものでした。
あまりの手際の良さから ”一日で一国を乗っ取った” と伝わっているのですが、これも尼子経久の謀略の見事さゆえに広まった誤解です。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1458年、尼子経久は出雲国に守護代である尼子清定の長男として生まれます。京極政経の人質として、青年時代を京で過ごしました。出雲国に戻されると父から家督を継ぎ、京極氏の寺社領を横領し、独立を目指します。しかし、国人たちの反発にあってしまい、追放されて城も地位も失いました。
どん底から山陰の支配者へ
ほどなくして月山富田城を奪いかえすと、京でのお家騒動から逃れてきた京極政経を保護。政経の孫・吉童子丸を後見する名目で出雲国主になりました。しばらくのあいだ大内義興に従いますが、石見国や安芸国でこれと争い、毛利元就らを従えて山陽地方にも支配を拡げていきました。
最後と死因
毛利氏の家督争いに介入してしくじり、元就の離反をまねくと、三男・塩冶興久に反乱を起こされるなど困難がつづきます。すでに陣没していた長男・政久に代わる孫・晴久に家督を譲り、尼子経久は出雲国・月山富田城で亡くなりました。1541年11月30日、死因は不明。84歳でした。
領地と居城の移り変わり


11か国の太守と言われましたが、領有したのは出雲国、伯耆国、隠岐国、備後国の4か国あわせて50万石ほどです。この後、最盛期を迎える尼子氏の基盤を築きました。
尼子経久の性格と人物像
尼子経久は「部下にも気をつかう気配りの人」です。
他者の発想の先をいく想像力で謀略をめぐらせる天才です。
しかし、その反面では他人の思惑を気にしすぎてしまう繊細さもあり、毛利元就の智謀に助けられると、その才能に恐れをなしてしまうなど、臆病さゆえ刃物のような警戒心を常に抱いています。
家臣に優しい親分です。物に対する執着心がなく、自分の持ち物を褒められると、どんな高価な物でもあげてしまいます。寒い冬場、経久が着ていた着物を家臣が褒めると、その場で脱いでプレゼントし、自身は薄手の小袖で過ごしました。
極端な倹約家で、家臣が瓜の皮を厚く切るのを見ていられず、自ら皮を薄く切ってお手本を見せたことがあります。
自分で描いたと伝わる肖像画が残っており、顔立ちが整った二重ぱっちりイケメンに仕上がっています。
実際に身につけていたと伝わる『梶葉形大鍬形阿古陀形筋兜』も現存しています。
能力を表すとこんな感じ

抜きん出た謀略術が尼子経久の強みです。直接手を下さずに他家の争いに介入し、漁夫の利を得ています。牢人から大名に成り上がった行動力も並ではありません。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する尼子経久の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
尼子経久の面白い逸話やエピソード
気前が良いにもほどがある
物欲はないが褒められればうれしい尼子経久は、自分の所有物を褒めてくれた相手に何でもあげてしまう癖がありました。
着物を褒めれば脱ぎ与え、刀や馬を褒めれば持ち帰らせるため、家臣たちはうっかり経久の物を褒めないように気をつかっていました。かといって、なにも言わないのも失礼になってしまう。
皆が困っていたところ、ある家臣が機転をきかせます。経久の屋敷の庭にある立派な松の木を褒めたのです。
さすがに松の木はくれるようなものでもあるまいと、松の枝ぶりがどうであるとか褒めちぎります。
経久はすっかり上機嫌。「よしっ」と張り切って松に近寄ると、松の木を根ごと掘り出してしまいました。家臣がこれは受け取れないと断ると「大きすぎたか」と、松の木を薪にして持ち帰らせました。
尼子経久の有名な戦い
足利将軍家ならびに細川京兆家の内乱に伴う合戦。摂津、和泉で敗れて丹波に逃れていた細川高国が京を奪還するため、船岡山(京都府京都市北区紫野北船岡町)の細川澄元陣営を攻めた。細川政賢を大将とする澄元方に対し、大内義興を中心とした高国方は大兵力で圧倒した。
船岡山合戦で尼子経久は勝っています。
大内義興に従って上洛し、細川高国の陣営に加わっています。
尼子氏が大内氏の鏡山城(広島県東広島市)を攻撃した合戦。城を守る蔵田房信はよく戦ったが、多治比元就の計略に内応した房信の叔父・蔵田直信が、尼子軍を城内に入れてしまう。尼子経久が率いる軍勢が押し寄せて制圧。妻子と城兵の助命を嘆願して、房信は自害した。
鏡山城の戦いで尼子経久は勝っています。
多治比(毛利)元就の活躍で勝利を得ますが、このことがきっかけで経久は元就を恐れるようになります。この後、毛利氏の家督争いを勃発させて元就の抹殺を試みますが失敗しました。
備後国に出陣した尼子経久に対抗するため、陶興房を大将とする大内軍が迎撃に向かった合戦。両軍は和智郷の細沢山(広島県三次市和知町)で激突した。5か月にわたって断続的に戦闘が行われ、この間にも和智豊広など備後の国人が大内氏に寝返り、尼子氏は敗れた。
細沢山の戦いで尼子経久は敗れています。
尼子経久のターニングポイントになった戦いです。
大内氏&山名氏によって包囲網が敷かれていた経久は、備後国を攻めて打開を試みます。しかし、大内方の陶興房に敗れたことで、国人衆の離反や反乱を呼ぶ結果となってしまいました。
尼子経久の詳しい年表と出来事
尼子経久は西暦1458年〜1541年(長禄2年〜天文10年)まで生存しました。戦国時代初期から中期に活躍した武将です。
1458 | 1 | 尼子清定の嫡男として出雲国に生まれる。幼名:又四郎 |
1474 | 17 | 人質として京極政経に預けられる。山城国・京に移る。 |
1478 | 21 | 元服 → 尼子経久 父・尼子政経の隠居により家督を相続。 出雲国・月山富田城を居城にする。 京極政経が所有する出雲国の寺社領を横領する。 |
1484 | 27 | 出雲国の国人衆から反発を受けて月山富田城を包囲される。 出雲国守護代を剥奪され月山富田城を追い出され牢人となる。 |
1486 | 29 | 新年の祝賀に乗じて鉢屋衆と共謀し守護代・塩冶掃部介を自害させる。月山富田城を奪還する。 |
1488 | 31 | 三沢氏を降伏させる。 |
1500 | 43 | 京極氏でお家騒動が起こる。京極政経が近江国から逃げてくる。これを保護する。【京極騒乱】 |
1506 | 49 | 山名澄之を支援し伯耆守護・山名尚之を没落させる。 |
1508 | 51 | 京極政経が死去。政経の孫・吉童子丸を後見する。 吉童子丸が行方不明になる。 出雲国主となる。 |
1511 | 54 | 上洛する大内義興の軍勢に加わる。 ”船岡山合戦”細川高国、大内義興の要請で細川澄元との戦に参加。 |
1512 | 55 | 備後国で古志為信が大内氏に叛く。これを支援する。 |
1513 | 56 | *弟・幸久に南条領・羽衣石城を攻めさせる。 |
1517 | 60 | 大内氏と争う山名氏を支援し大内領・石見国を攻める。 備中国の国人・新見国経を支援し三村宗親を退ける。 |
1518 | 61 | 桜井宗的が尼子氏に叛く。 *長男・政久に桜井宗的の討伐に向かわせるが政久が陣没する。 |
? | ? | 孫・晴久を伯耆守護代に任命。伯耆山名氏を実効支配する。 |
1521 | 64 | 山名澄之が南条宗勝ら反尼子派を支援する。伯耆山名氏との関係が悪化。 大内領・石見国に侵攻する。 |
1523 | 66 | 多治比(毛利)元就が従属する。 ”鏡山城の戦い”大内領・安芸国に侵攻する。安芸国人を従えて蔵田房信が篭る鏡山城を攻める。多治比元就の策略で鏡山城を内通させて落とす。 |
1524 | 67 | 山名領・伯耆国に侵攻する。 米子城、淀江城、天万城、尾高城、不動ガ嶽城、八橋城、岩倉城、堤城を攻略。南条宗勝を降し、伯耆守護・山名澄之を追放する。【大永の五月崩れ】 伯耆国を平定。 ”佐東銀山城の戦い”*大内義興が佐東銀山城に攻めてくる。毛利元就がこれを退ける。 相合元綱を支援して毛利氏の家督争いに介入する。相合元綱は毛利元就に敗れて自害。 毛利元就の異母弟・相合元綱を支援して毛利氏の家督争いを誘発する。毛利元就に敗れた相合元綱は自害。 |
1525 | 68 | 毛利元就が離反し大内義興に従う。 |
1527 | 70 | 大内氏と山名氏によって包囲網が形成される。 ”細沢山の戦い”大内義興が安芸国で武田光和と交戦中の隙を突いて備後国に向かう。安芸国から反転してきた大内氏の陶興房に敗れる。 備後国の国人が尼子氏から離反する。 |
1528 | 71 | 備後国・蔀山城を攻め落とす。 |
1530 | 73 | 三男・塩冶興久が尼子氏に叛く。出雲大社、鰐淵寺、三木氏、多賀氏、真木氏ら出雲国人衆、備後山内氏、但馬山名氏を加えた大規模な反乱を起こされる。【塩冶興久の乱】 |
1534 | 77 | *孫・詮久(晴久)が塩冶興久を追って山内領・甲立城を攻め自害させる。 *孫・詮久が美作国を攻める。 *孫・詮久が備後国を攻める。 隠岐為清が尼子氏に叛く。これを降す。 |
1537 | 80 | 孫・尼子詮久に家督を譲り隠居。 |
1541 | 84 | 出雲国・月山富田城で死去。 |

- 尼子経久 – Wikipedia
- 【武将列伝】 尼子経久|伯耆国人物列伝|伯耆国古城・史跡探訪浪漫帖「しろ凸たん」
- 鉢屋衆 – Wikipedia
- 大永の五月崩れ – Wikipedia
- 『謀聖』尼子経久を語らずして戦国時代の謀将を語るなかれ – YouTube
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
- 小和田哲男監修『地域別 x 武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版