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こうさか まさのぶ

高坂昌信

1527.? 〜 1578.6.12

 
高坂昌信のイラスト
  

高坂昌信(香坂昌信、春日虎綱、源五郎、源助)は、現在の山梨県にあたる甲斐の武将です。武田四天王のひとり。農民の出身ですが、武田信玄に見出されて小姓になります。みるみるうちに出世して、信濃の防衛を任されました。信玄、勝頼の2代に仕え、武田史を綴った甲陽軍鑑の著者として知られています。享年52歳。

高坂昌信の人物タイプ
参謀

このページでは、高坂昌信が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。戦国武将・高坂昌信のことがきっと好きになります。

  • 出身地:甲斐(山梨県)
  • 特 徴:クールで押し引き上手
  • あだ名:逃げ弾正
  • 居 城:海津城

逃げ弾正と称された撤退戦の達人で対謙信の防衛線を守り続けた

信玄・勝頼期の武田氏の戦略や戦術を記録した『甲陽軍鑑』は、今も購入が可能なベストセラー本です。甲陽軍鑑の著者として知られている高坂昌信(春日虎綱)は、武田氏の最盛期と衰退期を支えた大黒柱です。
信濃一国の保守を任され、ときに遊軍を率いる大将をこなすなど、特命をあたえられた「バレーボールでいうところのリベロのポジション」でした。

高坂昌信の冷静な状況判断とクールな対応は、撤退や退却のおりに抜群の冴えをみせました。敵の追撃を引きつけつつ、ときに押し返し、一気に逃げるといった緩急のつけかたが巧みであることから「逃げ弾正」の異名をとります。
武田軍の最後尾は、逃げ弾正こと高坂昌信の定位置だったといいます。

北信濃の攻略を目指す武田晴信(信玄)は、難敵・村上義清を攻略する拠点として、小諸城に高坂昌信を配備します。信濃の豪族や国人を統率する重要な役に抜擢された高坂昌信は、このときまだ27歳でしたが、完璧な仕事をこなしました。

信濃が完全に武田領になると、高坂昌信は海津城に異動になり、ここで生涯をかけたハードミッション・上杉謙信を迎え討つ守将という大仕事を与えられます。

上杉謙信の侵攻を止めて信濃を守る高坂昌信

信濃・海津城は、信玄がいる甲斐と、謙信の越後を隔てる防衛戦の役割りをする重要拠点でした。いわば、対謙信のための城です。
長年にわたって海津城を防衛した高坂昌信の功績は大きく、第4次・川中島の戦いで踏み込まれて以降は、謙信の信濃侵入を許していません。

[生涯] わかりやすい解説

① 信濃防衛

春日大隅の子として農家に生まれます。
春日源五郎(源助)と名乗り、父の死後、土地をめぐって姉夫婦と裁判をして、負けてしまいます。身寄りがなくなった16歳のころから武田信玄の小姓になりました。

高坂(香坂)氏の名前をもらって高坂昌信になります。
がんばり屋の昌信は、どんどん実力をつけていき、信濃の土地を任されるようになります。
信濃の村上義清を攻める拠点として、越後の上杉謙信から領地を守る番人の役目をしました。

② 晩年

信玄が亡くなると跡を継いだ武田勝頼の家来になりますが、嫌われてしまいます。
長篠の戦いで山県昌景などが戦死してしまい、武田四天王も昌信ひとりだけになりました。
武田氏のために働きつづけて、上杉景勝と争いをおさめる話し合いの期間中に、海津城で亡くなりました。

高坂昌信の簡単な年表

[能力] 文武両道で気づかいだってできるクールガイ

カッとならずに最適解をみつけられるクールガイです。長篠の戦いで惨敗した武田勝頼に新しい服に着替えてシャンとするよう進言するなど、上司を立てる心遣いも忘れません。また、そういった女房気質が煙たがられたのか、勝頼政権では組織の中枢から遠ざけられています。

甲陽軍鑑を書き残したように、執務官としてマメに仕事をこなしつつ、内外の勢力との取り次ぎ役も担う秘書であり、信濃衆をまとめて領土を統治する指揮官でもありました。

高坂昌信の逸話・面白いエピソード

春日源助(高坂昌信)に宛てた信玄のラブレターが残っている

甲斐の虎といわれた武田信玄は、男色家(男の子が好き)として有名で『春日源助』という美少年に夢中でした。春日源助とは、高坂昌信が少年だったころの名前で、姉夫婦と裁判をしていたところを信玄が見かけて、ひとめぼれ。小姓にスカウトし、恋仲になりました。
あるとき、弥七郎という別のボーイとの浮気を源助に疑われた信玄は、必死に弁明します。

”浮気してません!信じてお願い!弥七郎を誘ったけど、なんにもありませんでした!うそじゃありません!本当です!”
”わしには源助だけなのに、それを疑われたらシュンです”

顔から火が出そうな勢いの手紙で、信玄は春日源助に思いを伝えますが、源助はつれない態度で信玄をふり回します。
正式には『春日源助宛武田晴信誓詞』というこの手紙は、東京大学史料編纂所で現在も大切に保管されているそうです。

高坂昌信の戦い・有名な合戦

川中島の戦い かわなかじまのたたかい 1561.10.18 上杉軍1万3千 vs 武田軍2万

北信濃を国人衆のもとに取り戻そうとする上杉謙信と、これを支配しようとする武田信玄の合戦。千曲川(長野県長野市小島田町)を挟んで5回対戦したが、決着はつかず。激戦となった第4次・八幡原の戦いでは、謙信が武田本陣に突撃し、信玄を斬りつけたエピソードがある。

川中島の戦いで高坂昌信は引き分けています。第4次・八幡原の戦いで、高坂昌信は「啄木鳥(きつつき)戦法」と呼ばれる作戦の別働隊1万2千を率いました。このときの功績が、生涯かけて信濃の防衛を任されるターニングポイントになりました。
大乱戦で、両軍あわせて7,000人もの死傷者を出したといいます。亡くなった人を敵味方なく弔うため、昌信は「甲越直戦之地の石碑」をつくりました。上杉謙信も昌信に深く感謝したといいます。

高坂昌信の年表を詳しく

高坂昌信は西暦1527年〜1578年(大永7年〜天正6年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍した武将です。
織田信長より7年さきに生まれています。

15271春日大隅の子として甲斐に生まれる。
154216父・春日大隅が死去。姉夫婦との遺産をめぐって敗訴し、身寄りがなくなる。
武田晴信(信玄)の奥近習になる。
155327信濃・小諸城に入り、村上義清に備える。
156034信濃・海津城に移り、越後の長尾景虎(上杉謙信)に備える。
川中島衆を統率して、武田氏の信濃守将を任ぜられる。
156135信濃に侵攻してきた上杉政虎(長尾景虎=上杉謙信)を海津城で抗戦する。
”第4次川中島の戦い”上杉氏との戦で別働隊を率いる。
157246”三方ヶ原の戦い”徳川氏との戦に参加。
157347武田信玄が死去。武田勝頼に仕える。
157852上杉謙信の死後、上杉家で内紛が勃発。上杉景勝と武田氏の和睦交渉にあたる。【御館の乱】
死去。
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