片倉小十郎
1557.?〜 1615.12.4

片倉小十郎(景綱)は、現在の山形県にあたる出羽国の武将です。伊達政宗の最側近をつとめ、秀吉に降るよう小田原参陣を説得するなどの機転で主君の危機を救いました。戦場では目覚ましい働きをし、才智と武勇で政宗に尽くしました。疱瘡を患った政宗の右目を小刀で切除した逸話で知られています。享年59。
- 片倉小十郎の武将タイプ
- 参謀
片倉小十郎は何をした人?このページは、片倉小十郎のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと片倉小十郎が好きになる「梵天丸の目をえぐり取った忠臣が政宗の右目となった」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:片倉景綱
- 別 名:小十郎
- 官 位:従五位下、備中守、贈正五位
- 出身地:出羽国(秋田県、山形県)
- 居 城:大森城 → 佐沼城 → 亘理城 → 白石城
- 正 室:矢内重定の娘
- 子ども:3男 2女
- 跡継ぎ:片倉重長
- 父と母:片倉景重 / 本澤直子
- 大 名:伊達輝宗 → 伊達政宗
梵天丸の目をえぐり取った忠臣が政宗の右目となった
右目に眼帯「独眼竜」のニックネームで知られる伊達政宗には、10歳上の大きなお兄ちゃん的な存在の片倉小十郎というパートナーがいました。
伊達家の嫡男に生まれた政宗は幼名を「梵天丸」といい、片倉小十郎はその家来、護衛、友達、そして兄だったわけですが、めそめそ陰気で暗い梵天丸に手を焼きます。
というのも、梵天丸は天然痘に感染し、後遺症で視力を失った右目は飛び出ており、容姿に強烈なコンプレックスを抱いていたのです。
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幼い政宗の
右目を切り取る
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梵天丸が9歳のころ「誰かこの目をつぶせ」と、いじけて自暴自棄になります。皆はおずおずとするばかり。
いじけちらかす様子を見かねて、片倉小十郎が小刀を握りしめます。
「望みのままに……」グサッ

大騒ぎになりましたが、ともかく幼い政宗のコンプレックスは文字どおり取り除かれました。それからというもの、伊達政宗は人が変わったようにオラオラした若者に育ちます。
これは『性山公治家記録』や『明良洪範』などの伊達家の記録に見られる描写で、”片倉小十郎が政宗の右目を切り取った” とあります。
目を取ったショックで倒れた梵天丸に、片倉小十郎は「これしきのことで武士が倒れてはダメ」と叱りつけたといいます。
実際のところ、政宗の遺骨に右目を取った痕跡がないことから、これは創作と考えられていますが、片倉小十郎と伊達政宗の信頼関係を表す有名な逸話です。
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秀吉は
うるさいハエ
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1589年、片倉小十郎らの活躍もあって、伊達氏は奥州を制します。
このまま天下をねらいたい政宗でしたが、関東から西はすでに豊臣秀吉の軍門に降っており、奥州に攻めてくるのも時間の問題でした。
1590年、豊臣秀吉に服従しなかった北条氏を討伐する小田原征伐が開始されます。関東の北条氏が滅ぼされたら、秀吉の軍勢は奥州にやってきます。
東北の大名たちも秀吉から服従の意思を問われ、多くがこれに従いました。
せっかく奥州統一を果たしたのに、秀吉に降るなど面白くない。
成り上がり者の秀吉がどの程度かもわからない。伊達家中の意見は、抗戦と降伏で割れました。
家臣の手前、政宗も強がって抗戦ムードが高まります。
判断をまちがえば伊達氏が滅びてしまう危機。
片倉小十郎は、つぎのようにつぶやきます。
「秀吉の軍勢は夏のハエみたいなもの。一度や二度おいはらっても、しだいに数も増えてきて抗えなくなるでしょう」
ハッした政宗は秀吉に降ることを決め、小田原に向かいました。
かなり遅れて到着した小田原参陣で、政宗が白装束を着て秀吉の前に現れたパフォーマンスは有名ですが、これも片倉小十郎のアイデアだったといいます。
関白・秀吉は世間の評判を気にするであろうから、死ぬ覚悟の者を斬れないと考えたのです。
こうして難局を乗り越えた政宗は、その後も片倉小十郎のアドバイスで数々のピンチを逃れます。片倉小十郎の先見の明は、まさに伊達政宗の片目となりました。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1557年、片倉小十郎は出羽国・置賜郡下長井に八幡神社の神主の次男として生まれます。幼いころに両親を亡くし年が離れた姉・喜多に育てられます。姉が伊達家の嫡男・梵天丸(伊達政宗)の乳母になった縁もあって伊達輝宗の小姓になり、幼少の政宗に仕える従者になりました。
側近として政宗を支える
10歳下の政宗の兄のような存在として育ち、政宗が伊達氏の当主になると側近になります。奥州制覇を目指す政宗と一緒に連戦。やがて豊臣秀吉が天下を治めるようになると、小田原参陣など生き抜く術を政宗にアドバイスして伊達氏の歩む道を示しました。
最後と死因
江戸幕府がひらかれると一国一城令が敷かれますが、伊達領・白石城は例外とされ、城主を任されます。このころから病気で寝込むことも多くなり、片倉小十郎は陸奥国・白石城で亡くなりました。1615年12月4日、死因は病気。59歳でした。
領地と居城

陸奥国・白石1万3千石が片倉小十郎の領地でした。一国一城令でも特例として残され、仙台藩の南の拠点として明治まで機能しました。
片倉小十郎の性格と人物像
片倉小十郎は「切れ者すぎてヤバい人」です。
主人が望むなら、たとえ危険なことでも迷わずにリスクを選びます。常に命がけ、常に真剣勝負なので、うっかり願いを言うと大変なことになります。
政宗の母方の実家である最上家が上杉氏に攻められて救援を頼まれた際、すぐに出陣しようとする政宗に「もうちょっと待って両軍がボロボロになってから行くといい」と提案するなど、冷徹な戦略眼を持つ策士です。
秀吉から大名に取り立てるスカウトを受けますが、あっさり拒否。家康の誘いにも乗らず。主君は政宗だけと徹底しています。
政宗からの信頼も厚く、小十郎が亡くなったおりには政宗が自ら馬で棺を運びました。
篠笛が得意で、愛用の笛に「潮風」と命名。戦場でも兵たちに音色を聞かせていました。
晩年は布団から出られないほど太っており、鎧も着られないほどの肥満体でした。政宗から軽量の鎧をもらっています。
一本の杉の木を墓標にしてほしいという遺言を残しています。小十郎の墓標として植えられた杉の木『片倉の一本杉』が宮城県・白石市の傑山寺に健在です。
小十郎は別名で、本名は片倉景綱です。
能力を表すとこんな感じ

抜群の頭の良さと判断の速さが片倉小十郎を無二の存在としています。冴えわたる智謀で変わりゆく情勢を見通して、政宗のピンチを何度も救っています。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する片倉小十郎の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
片倉小十郎の面白い逸話やエピソード
ジュッ!自分で試し焼きをする
あるとき、伊達政宗は右脇腹にできた腫瘍で眠れず、悩んでいました。忌々しい腫瘍をいっそ切り取ってしまいたいが、武士が病気ごときで腹に刃を立てるわけにはいかない。
政宗から相談された小十郎は、馬小屋から持ち出した丸い鉄の棒を真っ赤になるまで炙って、自分の右腿に差しこみます。
ジュ〜〜〜ッ
かなり痛いけど死ななかったので、これを政宗の腫瘍に押し当てて荒療治しました。
この荒療治で政宗の腫瘍は消えましたが、全治30日の大やけどをしました。
一方、試し焼きをした小十郎のやけどは70日ほど治らず、治ったあとも「馬に乗るときに内股が引きつります(笑)」と政宗に話したといいます。
先に授かるなんて申し訳が立たぬ!
主君である伊達政宗が伊達氏の家督を継いだ翌年、小十郎に子どもができました。
本来ならめでたいことなのですが、政宗にはまだ子どもがおらず、小十郎は自分が先に子を授かってしまったのが気まずくなります。
「伊達家に嫡男が生まれるまではダメだ。かくなるうえは……」小十郎は、お腹の子どもが生まれたらすぐさま殺すというのです。
これを聞いた政宗から「頼むから俺に免じて助けてやってくれ。子を殺したら恨むぞ」という書状が届き、小十郎も思いとどまりました。
じつは片倉小十郎が何人もいる
片倉小十郎とは、片倉家の当主が襲名する名跡です。
初代は伊達政宗に仕えた片倉景綱で、小十郎といえばこの人のことです。
初代から三代目までの片倉小十郎は、主家である伊達氏のピンチを3回救ったと言われています。
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初代・小十郎
秀吉との対決を回避
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片倉景綱は、1590年の小田原征伐への参陣を拒否しようと考えていた政宗を説き伏せ、豊臣秀吉との全面抗争を避けさせました。
もしも秀吉の力量を見誤って対立していたら、伊達氏は数年内に確実に滅ぼされていました。政宗のプライドを傷つけないよう、秀吉の軍勢をハエに例えるなど、巧妙に説得しています。
※このページは小十郎=景綱として作成しています。
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二代目・小十郎
徳川体制で存在感を示す
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景綱の子で二代目を襲名した片倉重長も政宗に仕え、1614年の大坂冬の陣で後藤又兵衛を討ち取って『鬼の小十郎』と呼ばれています。
先代にも劣らない存在感を示したことで、徳川将軍家に対して伊達氏の健在ぶりをアピールしました。
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三代目・小十郎
仙台藩の改易を免れる
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三代目を襲名した片倉景長は仙台藩で起こった『伊達騒動』のおり、分裂した家中の混乱を食い止める働きをしました。景長の尽力が評価され、騒動による伊達氏の改易は免除されました。
このほかを含めると、明治までに小十郎を襲名した人物が13人います。
片倉小十郎の有名な戦い
二本松城を攻めた伊達政宗と、伊達氏に対抗する南陸奥の勢力が、人取橋(福島県本宮市)で戦った合戦。父・伊達輝宗の弔い合戦とする政宗が、11歳の二本松国王丸に攻撃。これを救援するため、佐竹義重を中心とした連合軍が伊達軍を追い払おうとした。
人取橋の戦いで片倉小十郎は引き分けています。
片倉小十郎のターニングポイントになった戦いです。
敵兵に囲まれた政宗を救うため「やぁやぁ殊勝なり!政宗ここに後見いたす!」と声をあげて、自分が政宗であるように思わせ、政宗を囲んでいた敵兵を引き付けました。伊達政宗の最大の危機を救っています。
大崎合戦に敗れた伊達政宗を叩くべく、蘆名&相馬軍が伊達領の城を攻略。大内定綱の先鋒隊が次々と侵攻し、郡山城(福島県郡山市西ノ内)一帯を攻撃。伊達成実が防衛をしつつ、蘆名氏から大内氏を味方につける。局地戦が群発する混戦となり、蘆名義広と和睦した。
郡山合戦で片倉小十郎は引き分けています。
逢瀬川の北岸に陣を置いた小十郎は、伊達成実と協力して防衛戦を戦います。数千の敵を相手に六百ほどの兵で2か月のあいだ奮闘しています。
反伊達の中心である蘆名氏を討つべく、伊達政宗が出陣。神出鬼没の動きで相馬氏を封じながら進軍し、摺上原(福島県磐梯町、猪苗代町)で蘆名義広との決戦に臨んだ。はじめ優勢だった蘆名軍は、形勢を逆転されると崩壊し、黒川城を奪取した伊達軍が攻め滅ぼした。
摺上原の戦いで片倉小十郎は勝っています。
前哨戦で高玉城を攻めて城主・高玉常頼を討ち取り、落城させています。摺上原本戦では、金上盛備の隊を壊滅させ、蘆名軍崩壊のきっかけをつくりました。伊達政宗の奥州統一に貢献しました。
関ヶ原の戦いの前哨戦。上杉討伐に向かう伊達政宗が白石城(宮城県白石市)を攻めた合戦。上杉方は登坂勝乃が守備に入るが、かつてこの城を所有していた伊達勢に地の利を活かされて苦戦する。片倉小十郎が白石に続く道を封鎖し、孤立した白石城は降伏した。
白石城の戦いで片倉小十郎は勝っています。
白石につづく七ヶ宿、越河、米沢、福島の道をおさえて城を孤立させる作戦を提案しました。この戦いで奪還した白石城は、片倉小十郎の居城として一国一城令が発された後も例外的に存続が許されました。
片倉小十郎の詳しい年表と出来事
片倉小十郎は西暦1557年〜1615年(弘治3年〜元和元年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍した武将です。
1557 | 1 | 片倉景重の次男として出羽国に生まれます。 |
? | ? | 両親を亡くし実姉・喜多に育てられる。 親戚・藤田家の養子になる。 |
? | ? | 藤田家に男子が生まれたため片倉家に戻り実姉・喜多に育てられる。 |
1567 | 11 | 実姉・喜多が伊達輝宗の嫡男・梵天丸(伊達政宗)の乳母になる。 |
? | ? | 伊達輝宗の小姓になる。 |
1575 | 19 | 遠藤基信に推挙されて梵天丸の徒小姓になる。 |
1581 | 25 | ”小斎の戦い”相馬義胤との戦に参加。 |
1585 | 29 | ”人取橋の戦い”佐竹義重が率いる反伊達連合との戦に参加。伊達政宗の影武者となって窮地を救う。 |
1586 | 30 | 二本松城攻めに参加。二本松家滅亡 |
1588 | 32 | ”郡山合戦”蘆名氏&相馬氏の連合軍との戦に参加。 |
1589 | 33 | ”摺上原の戦い”蘆名義広との戦に参加。伊達成実と安子島城を降し高玉城を攻め落とす。蘆名家滅亡 ”須賀川城の戦い”阿南姫との戦に参加。二階堂家滅亡 |
1590 | 34 | 伊達政宗に豊臣秀吉の北条氏討伐に従うよう忠諌する。 ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。北条家滅亡 陸奥国・佐沼城に入る。 |
1591 | 35 | ”葛西大崎一揆”一揆の鎮圧戦に参加。 ”九戸政実の乱”九戸政実の鎮圧戦に参加。【第2次奥州仕置】 陸奥国・亘理城を居城にする。 |
1593 | 37 | 伊達政宗に同行して朝鮮国に渡る。豊臣秀吉から軍船を下賜される。【文禄の役】 ”第2次晋州城攻防戦”朝鮮軍が篭る晋州城攻めに参加。 朝鮮国から帰国。 |
1600 | 44 | 出奔していた伊達成実を説得して伊達氏に帰参させる。 ”白石城の戦い”上杉領・白石城攻めに参加。 ”松川の戦い”上杉景勝との戦に参加。 |
1602 | 46 | 陸奥国・白石城を居城にする。 |
1615 | 59 | 陸奥国・白石城で病死。 |

- 片倉景綱 – Wikipedia
- 片倉小十郎 – Wikipedia
- 片倉家歴代当主|しろいし観光ナビ
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