伊達成実
1568.?〜 1646.7.16

伊達成実は、現在の宮城県にあたる陸奥国の武将です。伊達政宗の従弟にあたり、分家である亘理伊達家の当主です。決して退かない猛将ぶりで政宗の奥州統一に大きく貢献しました。朝鮮出兵から戻ったあと、とつぜん伊達家を出奔。のちに出戻りますが、政宗のもとを去った理由は不明のままです。享年79。
- 伊達成実の武将タイプ
- 猛将
伊達成実は何をした人?このページは、伊達成実のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと伊達成実が好きになる「政宗の従弟で勇武無双と称された猛将が謎の出奔をした」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:伊達成実
- 幼 名:時宗丸
- 官 位:安房守
- 出身地:陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県)
- 居 城:大森城 → 二本松城 → 角田城 → 亘理城
- 正 室:亘理御前(亘理重宗の娘)
- 子ども:1女 1養
- 跡継ぎ:伊達宗実
- 父と母:伊達実元 / 鏡清院
- 大 名:伊達政宗 → 出奔 → 帰参 → 伊達忠宗
政宗の従弟で勇武無双と称された猛将が謎の出奔をした
伊達成実は伊達政宗を武の面で支えた1歳ちがいの従弟です。政宗の腹心・片倉小十郎とともにナンバー2として知られています。
1586年の人取橋の戦いをはじめ、奥州を席巻した政宗の陣営にあって、伊達成実はひときわ大きな存在感を示しました。
豊臣秀吉が天下統一を果たした1590年ごろから、秀吉の命令で京で過ごすことが多くなった政宗の留守をあずかったのも伊達成実でした。
政宗に同行して朝鮮に渡った1592年の文禄の役でも際立った働きをした伊達成実は、1593年に帰国、しばらく京の伊達屋敷で過ごしていました。
ところが、1595年のある日、とつぜん伊達家を出奔してしまいます。
さっきまでそこに居たはずの伊達成実がいなくなってしまったので、政宗も大慌て。高野山に行ったらしい伊達成実のもとに使いを出して説得を試みますが、聞く耳をもたずそのままどこかへ消えてしまいました。
原因不明の伊達成実の家出は、つぎのようなことが理由と推測されています。
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政宗のバカヤロー
『序列が不満だった説』
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政宗の従弟で活躍も申し分なかった伊達成実は、当主・政宗の代わりを務めることもあり、自分こそが伊達家を支えている自負がありました。しかし、政宗は叔父にあたる石川氏を家臣の筆頭として扱います。
年長の石川昭光であればまだしも、昭光の子・石川義宗が自分より上として扱われることが我慢ならなかった説です。
秀吉が天下を治めたことで、伊達領は大幅に減らされていました。伊達成実もそのあおりを受けて減封され、仕方なしと堪えていたのに序列まで下げられたことにキレたのかもしれません。
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政宗、俺に任せろ
『秘密工作説』
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伊達成実が諸国を調略してまわり、伊達政宗に天下を取らせる秘密工作をしたとする説です。
東北に赴き伊達領での出来事とも関わりが深い蒲生氏郷を中心に記録した『蒲生軍記』に、隠密行動のために伊達成実が出奔したと記されているそうです。
また、1595年の『秀次切腹事件』で、謀反を問われた豊臣秀次との関係が疑われた政宗をかばうために罪をかぶって姿を消したとする説もあります。
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結局、
なんだったのか
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出奔先も高野山と相模国・糟谷の説があり、真相はわかっていません。
出奔した時期についても諸説あり、1595年〜1598年のどこかとされています。伊達氏の重大事件であったはずなのに、どこにも記録されていないのです。
どこでなにをしていたのかもわからない伊達成実の家出騒動でしたが、1600年に片倉小十郎に説得されて政宗のもとに戻り、しれっと元サヤに収まったのでした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1568年、伊達成実は陸奥国・大森城に伊達実元の長男として生まれます。同世代で従兄の伊達政宗と一緒に、人取橋の戦いや摺上原の戦いなど、数々の戦いをくぐり抜けました。天下統一に迫る豊臣秀吉と抗戦を訴えますが意見は聞かれず。秀吉に服従する政宗の留守を預かりました。
とつぜん謎の出奔
朝鮮出兵では政宗と行動をともにし、帰国後は政宗と京・伏見に滞在していましたが、あるとき突然、政宗のもとを去ります。出奔から数年後、片倉小十郎に説得されて伊達一門に復帰しました。
最後と死因
その後、伊達家と徳川家の婚姻で取次役をつとめ、3代将軍・徳川家光から戦国の生き証人として称賛を受けるなど信頼され、伊達成実は陸奥国・亘理で亡くなりました。1646年7月16日、死因は不明。71歳でした。老衰とされています。
領地と居城

陸奥国・亘理23か村5千石が伊達成実の領地でした。政宗の全盛期には二本松城を与えられ、3万8千石を領していました。
伊達成実の性格と人物像
伊達成実は「強情っぱりな人」です。
豊臣秀吉と戦うか降るかという選択を迫られた伊達家で「徹底抗戦」を主張しつづけた武闘派です。その件で、非戦派の片倉小十郎と大いにもめています。
勇武無双と評される猛将でした。周りでバタバタと味方が討たれても退くことを拒否し、むしろ敵に向かっていって活路を見出します。
若いころ、家臣の不始末から起こった火事で、火消しに躍起になって右手の指がぜんぶくっついてしまうやけどを負っています。
著書に伊達政宗の一代を記録した『成実記』があります。オリジナルに加筆がなされ『政宗記』として伝わりますが、実際に成実が書いたのは出奔したあたりで途切れています。
毛虫の前立てが存在感バツグンな『黒漆五枚胴具足』が現存しています。決して後ろに退かない毛虫の習性にあやかったものでした。胴には銃弾を受けた痕が残っています。
能力を表すとこんな感じ

何度も危機を打開した伊達成実は、個の強さが際立ちます。調略にも長けており、領内政治も上手でした。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する伊達成実の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
伊達成実の有名な戦い
二本松城を攻めた伊達政宗と、伊達氏に対抗する南陸奥の勢力が、人取橋(福島県本宮市)で戦った合戦。父・伊達輝宗の弔い合戦とする政宗が、11歳の二本松国王丸に攻撃。これを救援するため、佐竹義重を中心とした連合軍が伊達軍を追い払おうとした。
人取橋の戦いで伊達成実は引き分けています。
左翼最前線を担って瀬戸川に陣取りました。政宗の本陣が崩れ、敗戦必至となりますが、成実は「退いて敗れるくらいならここで討死する」と踏みとどまり、5百の手勢で奮戦し、政宗が退却する時間をつくりました。
大崎合戦に敗れた伊達政宗を叩くべく、蘆名&相馬軍が伊達領の城を攻略。大内定綱の先鋒隊が次々と侵攻し、郡山城(福島県郡山市西ノ内)一帯を攻撃。伊達成実が防衛をしつつ、蘆名氏から大内氏を味方につける。局地戦が群発する混戦となり、蘆名義広と和睦した。
郡山合戦で伊達成実は引き分けています。
伊達成実のターニングポイントになった戦いです。
わずか6百の兵で蘆名軍の攻勢を2か月しのいでいます。敵方の大内定綱を調略して味方につけ、蘆名兵を退かせるきっかけをつくりました。山王山に陣所をかまえ、連合軍の突破を許しませんでした。
反伊達の中心である蘆名氏を討つべく、伊達政宗が出陣。神出鬼没の動きで相馬氏を封じながら進軍し、摺上原(福島県磐梯町、猪苗代町)で蘆名義広との決戦に臨んだ。はじめ優勢だった蘆名軍は、形勢を逆転されると崩壊し、黒川城を奪取した伊達軍が攻め滅ぼした。
摺上原の戦いで伊達成実は勝っています。
合戦の序盤で伊達軍は劣勢を強いられましたが、敵が伸びきったところで成実隊が側面から強襲して寸断します。この働きで形勢を逆転させました。
関ヶ原の戦いの前哨戦。上杉討伐に向かう伊達政宗が白石城(宮城県白石市)を攻めた合戦。上杉方は登坂勝乃が守備に入るが、かつてこの城を所有していた伊達勢に地の利を活かされて苦戦する。片倉小十郎が白石に続く道を封鎖し、孤立した白石城は降伏した。
白石城の戦いで伊達成実は勝っています。
出奔から伊達氏に戻った成実は、その直後に石川昭光の隊に配属されて参戦しています。
伊達成実の詳しい年表と出来事
伊達成実は西暦1568年〜1646年(永禄11年〜正保3年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍した武将です。
1568 | 1 | 伊達実元の嫡男として陸奥国に生まれる。幼名:時宗丸 |
1579 | 12 | 元服 → 伊達(藤五郎)成実 |
1583 | 16 | 父・伊達実元から家督を相続。 |
1585 | 18 | ”人取橋の戦い”佐竹義重が率いる反伊達連合との戦に参加。奮戦し伊達政宗から感状を送られる。 |
1586 | 19 | 二本松城攻めに参加。二本松家滅亡 陸奥国・二本松城を居城にする。 亘理重宗の娘(亘理御前)と結婚。 |
1588 | 21 | ”郡山合戦”蘆名氏&相馬氏の連合軍との戦に参加。寡兵で蘆名軍をくい止める。大内定綱を調略し味方につける。 |
1589 | 22 | ”摺上原の戦い”蘆名義広との戦に参加。片倉小十郎と安子島城を降し高玉城を攻め落とす。蘆名家滅亡 ”須賀川城の戦い”阿南姫との戦に参加。雨呼口から攻める。二階堂家滅亡 |
1590 | 23 | 小田原征伐に伊達政宗に代わって留守役を務める。 |
1591 | 24 | ”葛西大崎一揆”一揆の鎮圧戦に参加。 伊達政宗に葛西大崎一揆を扇動した疑いがかかり、蒲生氏郷の人質として名生城に入る。 陸奥国・角田城を居城にする。 |
1593 | 26 | 伊達政宗に同行して朝鮮国に渡る。【文禄の役】 ”第2次晋州城攻防戦”朝鮮軍が篭る晋州城攻めに参加。 朝鮮国から帰国。 |
1595 | 28 | 伊達氏を出奔。 角田城が屋代景頼に接収される。 ※1598年に出奔という説もあり |
1600 | 33 | 上杉景勝から5万石でスカウトされるが拒絶する。 片倉小十郎に説得されて伊達氏に帰参する。 ”白石城の戦い”上杉領・白石城攻めに参加。 ”松川の戦い”上杉景勝との戦に参加。 |
1603 | 36 | 陸奥国・亘理城を居城にする。 |
1614 | 47 | ”大坂冬の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。 |
1615 | 48 | ”大坂夏の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。豊臣家滅亡 |
1636 | 69 | 主君・伊達政宗が死去。次代・伊達忠宗に仕える。 |
1639 | 72 | 伊達政宗の九男・伊達宗実を養嗣子に迎える。 |
1646 | 79 | 養嗣子・伊達宗実に家督を譲り隠居。 陸奥国・亘理で死去。 |

- 伊達成実 – Wikipedia
- 伊達成実|亘理町観光協会のホームページ
- 伊達成実専門サイト 成実三昧 成実出奔
- 矢部健太郎監修『戦国家臣団 最強28家261人』宝島社
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社