上杉憲政
1523.?〜 1579.4.13

上杉憲政(憲当、憲當、光徹)は、現在の群馬県にあたる上野国の武将・大名です。関東管領の山内上杉氏の家柄に生まれ、家督争いのすえ9歳で当主になります。北条氏、武田氏に敗れて権威をなくし、越後国に亡命。長尾景虎(上杉謙信)に家督と管領職を譲って隠居しました。謙信亡きあと、御館の乱で死亡。享年57。
- 上杉憲政の武将タイプ
- 官僚
上杉憲政は何をした人?このページは、上杉憲政のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと上杉憲政が好きになる「負け続けた関東管領が逆転の切り札に謙信を召喚した」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:上杉憲政 → 上杉憲当 → 上杉憲當 → 上杉光徹
- 官 位:兵部少輔
- 幕 府:関東管領
- 出身地:上野国(群馬県)
- 領 地:上野国
- 居 城:平井城
- 子ども:5男 3養
- 跡継ぎ:上杉謙信
- 父と母:上杉憲房 / 不明
- 大 名:上杉氏15代当主
負け続けた関東管領が逆転の切り札に謙信を召喚した
上杉憲政が生まれた山内上杉氏は、関東を総管する関東管領という職務を担う家柄です。
当然ながら、関東で一番えらいのです。
分家に扇谷上杉氏があり、その近くには山内上杉氏のご先祖さまを騙して殺した古河公方足利氏がいました。
みんな上流階級の人たちなので、自分が一番えらいと思っており、仲良くなれません。
武蔵国(現在の埼玉県と東京都あたり)では、山内と扇谷の上杉氏と古河公方足利氏による紛争が続いていました。管領や公方と呼ばれる家同志がこのありさまですので、関東の治安は乱れまくっていました。
1530年頃から、新興勢力の後北条氏が関東に進出してきたので、さらにややこしいことになります。
上流階級の紛争に介入する北条氏康がムカつくので、上杉・足利の両氏はとりあえず手を組んでやっつけようと画策します。
しかし、1546年の河越夜戦でみんなまとめて返り討ちにあってしまいました。
北条氏に負けた汚名を晴らそうと、上杉憲政は武田晴信(信玄)の討伐に向かいますが、これも惨敗してしまい「もしかして関東管領って弱いんじゃないw」と囁かれはじめます。
/
求む、強いひと
上杉謙信を召喚
\
負けが込んで一文無しになることを「オケラ」といいますが、度重なる連敗で家臣が離れていき、本拠地である上野国まで北条氏に奪われてしまった上杉憲政はまさにオケラでした。
”もっと強い人じゃなきゃ北条や武田に勝てない……”
脳裏に浮かんだのは、初陣から負け無しと評判の越後守護代・長尾景虎でした。
「そうだ、越後に行こう」
1552年、上杉憲政はお隣りの越後国に逃がれます。
北条に好き放題された恨みつらみを伝えると、景虎はすぐに出陣して北条氏を追い散らしました。
これは想像していた以上の強さ。
すっかり景虎に惚れ込んだ上杉憲政は、1557年に彼を養子にすると、1561年には山内上杉氏の家督と関東管領職を譲ります。
関東管領となった景虎は、本格的に北条討伐へ乗り出し、北条氏康の居城である小田原城まであっというまに攻めて行きました。
景虎のすさまじい強さは、関東を総管する者の迫力でした。
長尾景虎は上杉姓に改め、名を政虎ついで輝虎、そして謙信としました。
こうして不敗の軍神・上杉謙信が誕生したのでした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1523年、上杉憲政は上野国・平井城に関東管領である上杉憲房の子として生まれます。父が亡くなると、関東享禄の内乱が勃発。古河公方から養子に入っていた憲寛と家督を争い、これに勝利して9歳で関東管領になりました。しかし、北条氏や武田氏に敗れて権威を失い、越後国の長尾景虎を頼ります。
上杉氏の家督を譲るが…
長尾景虎に上杉の家督と管領職を譲って越後国・春日山城でおだやかに暮らします。しかし、上杉謙信が後継者を決めないまま急死してしまい、上杉家では謙信の養子2人による御館の乱が勃発。ふたたび家督争いの渦中に巻き込まれてしまいます。
最後と死因
謙信の養子のひとりである北条氏康の七男・上杉景虎に味方し、上杉景勝に対抗しましたが敗れます。上杉憲政は春日山城の景勝陣営に和睦に向かう途中、殺されてしまいました。1579年4月19日、死因は殺害。57歳でした。
領地と居城

上野国と武蔵国の一部で50万石ほどが上杉憲政の領地でした。西上野を武田信玄に、残りの大半を北条氏康にかじり取られました。
上杉憲政の性格と人物像
上杉憲政は「身勝手だけどちょっぴり健気な人」です。
時代に翻弄されてしまった感は否めず、全盛期の北条氏康や武田信玄を相手にしたのはまずかった。一応は役割をこなそうとしますが、敵対する相手は身の丈に合いませんでした。
3歳で父を亡くし、家督争いからのキラーパスを受けて9歳で関東管領になるハードモードな幼少期を過ごしています。
権力をかざした結果、すべてを失ってしまい、こんどは憲政が上杉謙信にキラーパスします。
お坊ちゃん育ちのため、贅沢三昧でわがまま。だらしなく女遊びに興じるなど感心できません。
北条軍に攻められて、嫡男・龍若丸を置き去りにして逃げるへっぴり腰。謙信とは正反対の性質です。
憲政が着用したと伝わる甲冑『素懸紫糸威黒塗板物五枚胴具足』は、牡丹獅子があしらわれた豪華絢爛な品。
このほか、謙信や景勝に贈った武具の数々も残っています。
能力を表すとこんな感じ

上杉憲政にはこれといった強みがなく、関東管領という役職だけが唯一の強みでした。それもただのメッキにすぎません。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する上杉憲政の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
上杉憲政の有名な戦い
山内、扇谷の上杉氏、古河公方足利氏の大連合軍で北条綱成が守る河越城(埼玉県川越市郭町)を包囲した合戦。北条氏康は鎧兜を装備しない兵士たちを率いて夜襲を決行。半年にわたる包囲戦で油断していた連合軍を大混乱に陥れ、扇谷の当主・上杉朝定を討ち取った。
河越夜戦で上杉憲政は敗れています。
上杉憲政のターニングポイントになった戦いです。
宿敵だった扇谷上杉氏と古河公方を抱き込み、後北条氏から河越城を奪還する予定でしたが、まさかの大敗を喫します。ここから転がり落ちるように権威を失ってしまいました。
後継者未定のまま上杉謙信が没したため、継承権を持つ甥・上杉景勝と北条氏から養子に入っていた上杉景虎が争ったお家騒動。景勝が春日山城本丸を占拠し、景虎は城下の御館(新潟県上越市五智)に陣をとった。北条氏や武田氏も巻き込む大乱になったが、景勝が勝利した。
御館の乱で上杉憲政は敗れています。
謙信の没後に勃発した内乱で、憲政は上杉景虎を支持しました。景虎派が本陣としたのが憲政の館である御館でした。上杉憲政は景勝派に捕われ、殺害されました。
上杉憲政の詳しい年表と出来事
上杉憲政は西暦1523年〜1579年(大永3年〜天正7年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1523 | 1 | 上杉憲房の子として上野国に生まれる。 |
1525 | 3 | 父・上杉憲房が死去。養子・上杉憲寛が家督を相続。 |
1531 | 9 | 上杉憲房の実子である憲政の擁立派と、養子で現当主の憲寛の保守派で対立。これに勝って、山内上杉氏の家督と関東管領職を相続する。【関東享禄の内乱】 |
1541 | 19 | 信濃国から逃れた海野棟綱、真田幸隆が頼ってくる。 *長野業政に海野領・佐久郡の奪還に向かわせる。諏訪頼重と和睦するが真田領・小県郡には介入せず。 真田幸隆が離反する。 |
1545 | 23 | 扇谷上杉・上杉朝定、古河公方・足利晴氏と盟約を結び、北条氏の関東侵攻に備える。 ”第2次河東の乱”今川義元と同盟し、駿河国に侵攻した北条氏康の背後を攻め、山内上杉&扇谷上杉&古河公方の連合軍8万で河越城を包囲する。 |
1546 | 24 | ”河越夜戦”北条氏康の奇策に敗れて退却する。 改名 → 上杉憲当 |
1547 | 25 | ”小田井原の戦い”武田晴信に攻められた志賀城の笠原清繁を救援に向かうが、惨敗する。 成田長泰ら家臣が離反し、北条氏に服従した。 |
1552 | 30 | 御嶽城が北条氏康に攻め落とされる。さらに家臣の離反が進む。 上野国・平井城から逃亡し、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後国へ亡命する。 北条氏康に捕縛された嫡男・龍若丸が処刑される。 長尾景虎が山内上杉領を奪還し北条氏を追い払う。 |
1557 | 35 | 長尾景虎を養子にする。 |
1561 | 39 | 長尾景虎に関東管領職と山内上杉氏の家督を譲り隠居。 改名 → 上杉光徹 |
1578 | 56 | 上杉謙信が死去。 上杉景勝と上杉景虎による家督争いが勃発。景虎を支援する。【御館の乱】 |
1579 | 57 | 景勝派によって越後国・春日山城で殺害される。 |
