村上義清
1501.3.29 〜 1573.2.3

村上義清は、現在の長野県にあたる信濃国の武将です。北信濃に侵攻してきた武田信玄と争い、二度にわたって撃退しました。合戦では負けませんでしたが、武田氏の調略によって領地を奪われ、多くの家臣を引き抜かれてしまい、越後に亡命します。上杉謙信の家来になって、信玄と川中島でも激しく戦いました。享年73歳。
- 村上義清の武将タイプ
- 猛将
村上義清は何をした人?このページは、村上義清のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと村上義清が好きになる「二度も信玄に勝ったけど信濃を追われて謙信を頼った」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:村上義清
- 幼 名:武王丸
- 官 位:右京権亮、佐渡守、左衛門尉、左衛門佐、周防守、左馬頭、信濃守、兵部大輔、左近衛少将、従五位下、従四位下、正四位上
- 出身地:信濃国(長野県)
- 領 地:信濃国
- 居 城:葛尾城 → 根知城
- 正 室:小笠原長棟の娘
- 子ども:5男 6女
- 跡継ぎ:山浦国清
- 父と母:村上顕国 / 斯波氏
二度も信玄に勝ったけど信濃を追われて謙信を頼った
知る人ぞ知る信濃のブルファイター村上義清は、甲斐の虎と恐れられた武田信玄に完全勝利した唯一の人物です。
村上義清と対戦したときの信玄は、武田晴信と名乗っていた28歳の若者でした。この若者は初陣から負け知らずで、恐れを知らない無遠慮な侵略者でした。信濃のすべてを奪い取ろうとするこの者を、誰も止められずにいたのです。
/
無敗だった信玄を
コテンパンにする
\
1548年、武田晴信(信玄)は、北信濃の村上領に意気揚々と攻めてきます。村上義清は上田原の戦いで圧倒的な格の違いをみせます。
積極的に攻勢をかける武田方の重臣・板垣信方に慢心がみられると、村上義清はこれを挑発しながら少しずつ後退しました。そして、板垣隊に油断が生じたところ見逃さずに反転し、一気に突撃して板垣信方を討ち取りました。
板垣隊が壊滅して武田軍に動揺がみられると、村上義清は隊をふたつに分けて、二方向から挟みうちにします。村上義清の本隊で武田本陣に猛烈な突撃をして、側近の甘利虎泰を討ち取り、信玄に負傷させました。
ガタガタになった武田軍は甲斐に逃げていきました。村上義清は負けなしだった信玄に、はじめて黒星をつけて侵攻を止めてみせました。
しかし、これで武田信玄がだまっているはずもなく、村上義清が高梨政頼と争っている留守をねらって砥石城に攻めてきます。村上義清は急いで兵を戻すと、砥石城を攻める武田軍の背後から急襲。タイミングよく城兵を出撃させて挟みうちにし、またしても信玄を逃げ帰らせました。
1550年に行われたこの戦いは「砥石崩れ」といわれ、武田軍がボロボロに崩壊した様子が伝えられています。
/
義清の亡命
川中島の戦いへ
\
二度も敗れた信玄は、もう村上義清と正面から戦うのをやめました。真田幸隆をつかって信濃国衆に調略をしかけてきます。矢沢頼綱に裏切られて砥石城を奪われると、次第に村上義清の味方はいなくなり、武田に抵抗することができなくなりました。ついに居城の葛尾城にまで迫られてしまいます。
やりきれない思いを抱いて、村上義清は1553年に越後の上杉謙信のもとへ亡命しました。これがきっかけで、武田信玄と上杉謙信のライバル対決「川中島の戦い」が勃発することとなります。
月日は流れ、武田氏が織田信長によって滅ぼされた1582年、村上義清の子・山浦国清が信濃国・海津城に入り、村上氏は旧領復帰を果たしました。村上義清が越後国に亡命してから、およそ30年後のことでした。
生涯を簡単に振り返る
1501年、村上義清は信濃国・葛尾城に村上顕国の子として生まれます。甲斐国守護・武田信虎の協力を得て信濃国の豪族たちと争い、海野氏や真田氏をやぶりました。武田信玄が当主になると敵対し、信濃国北部で衝突。これを二度退けますが、武田氏に味方した真田幸隆の調略により孤立。やむなく信濃国を追われました。
その後、上杉謙信を頼って越後国に逃れ、川中島の戦いが起こると上杉軍の一員として武田信玄と戦いました。謙信から領地をもらって家臣になり、息子は山浦上杉家の名跡をもらうなど優遇されました。
最後と死因
川中島の戦いに5回とも参陣し、信玄と戦いつづけた村上義清は越後国・根知城で亡くなりました。1573年2月3日、死因は病気。73歳でした。
領地と居城

信濃国の北部の川中島4群20万石ほどが村上義清の領地でした。国境ちかくにあるこの地を謙信と信玄は取り合いました。
村上義清の性格と人物像
村上義清は「野生的な勘に優れている人」です。
戦局を読む能力に優れており、敵のウイークポイントを見つけるのが上手です。信玄に家族を殺された将兵を配置して、報復感情というブースト効果を利用するなど、いくさ脳が働きます。
腕に自信があり、豪胆で、先頭に立って戦いました。長槍の扱いが得意で、義清が実戦で使った長槍隊は戦国時代のスタンダードになりました。用兵術に優れ、陣形の元祖と言える隊列を採用した第一人者でもあります。
国衆の結束を固めるリーダーシップを発揮できず、味方勢力がヘッドハンティングされるのを、止められなかったことが悔やまれます。
能力を表すとこんな感じ

合戦の強さが村上義清のストロングポイントです。一糸乱れぬ統率力とここ一番の思い切りの良さで敵部隊に突撃しました。
信長の野望シリーズに登場する村上義清の能力値も参考にしています。
村上義清の面白い逸話やエピソード
はじめて合戦に陣形を取り入れた
武田軍を圧倒した上田原の戦いで、村上義清は兵種で分けた隊列を使っていました。最前列に弓兵や鉄砲兵(飛び道具)を配置して、矢と銃弾がなくなるまで攻撃する。矢がなくなったら、弓を捨てて白兵戦で斬りかかるというものでした。
これを見ていた武田家の軍師・山本勘助は、村上軍の戦い方を詳細にメモして持ち帰り、すぐに武田軍に応用しました。一方、最終的に信玄に敗れて越後に逃れた村上義清は、上杉謙信に村上式の隊形を伝えます。謙信は、これを常備軍に採用&応用して『五段隊形』というフォーメーションを完成させました。
村上式の隊形を採用した武田軍と上杉軍の戦いはハイレベルなものになります。すると、周辺の勢力もこれに対抗するために、陣形を採用するようになってトレンド化していきました。
関東甲信地方で広まった村上メソッドフォーメーションは、東海道をつたって西日本にも波及し、日本全土で使われるようになります。しまいには、中国大陸の戦術に影響を及ぼすまでに発展し、江戸時代末期まで採用されました。
村上義清の有名な戦い
上田原(長野県上田市)に進軍した武田晴信と守勢・村上義清の合戦。これまで無敗で快進撃を続けていた晴信がはじめて大きな敗北を喫した。武田勢・板垣信方の油断を見逃さなかった村上義清の猛攻撃によって、武田軍は板垣ら重臣を失い、武田晴信も負傷した。
上田原の戦いで村上義清は勝っています。
勢いにのる武田信玄に、壊滅的なダメージを与えて勝利したこの合戦で、義清が用いたとされる兵種別の編隊が、日本の合戦で用いられる ”陣形” に発展していきました。
高梨氏と村上義清が争っている隙をねらった武田晴信が砥石城(長野県上田市上野)を攻めた合戦。義清は高梨政頼と和睦して急ぎ兵を向け、城攻めに苦戦して撤退しようとする武田軍を城兵と挟み撃ちにする。晴信は影武者を身代わりにしてなんとか逃げた。
砥石崩れで村上義清は勝っています。
村上義清のターニングポイントになった戦いです。
これより以前、信玄に攻め落とされた笠原氏の志賀城の残党を砥石城に配備して、武田へのリベンジ感情を利用しました。完勝したことで、信玄に調略の重要性を気づかせてしまいました。
北信濃を国人衆のもとに取り戻そうとする上杉謙信と、これを支配しようとする武田信玄の合戦。千曲川(長野県長野市小島田町)を挟んで5回対戦したが、決着はつかず。激戦となった第4次・八幡原の戦いでは、謙信が武田本陣に突撃し、信玄を斬りつけたエピソードがある。
川中島の戦いで村上義清は引き分けています。
村上義清の越後亡命が戦いの発端となり、義清は上杉謙信のもとで戦いっています。第4次合戦では、高坂昌信が率いた武田軍の別働隊の合流を阻止する役目をしました。信玄の弟・武田信繁とも交戦し、深傷を負わせています。
村上義清の詳しい年表
村上義清は西暦1501年〜1573年(文亀元年〜元亀4年)まで生存しました。戦国時代初期から後期に活躍した武将です。
1501 | 1 | 村上顕国の子として信濃国に生まれる。幼名:武王丸 |
1515 | 15 | 元服 → 村上義清 |
1519 | 19 | 初陣。諏訪頼満の平賀城を攻める武田信虎に援軍として加わる。 |
1520 | 20 | 父・村上顕国の死去により家督を相続。 |
1538 | 38 | 武田信虎が信濃国・佐久郡に攻めてくる。諏訪頼満と迎え討つが飯富虎昌に敗れる。 |
1540 | 40 | 武田領・甲斐国に侵攻する。 武田信虎が信濃国・佐久郡に侵攻してくる。 |
1541 | 41 | 武田信虎と同盟を結ぶ。 ”海野平の戦い”武田信虎、諏訪頼重と連携して小県郡に侵攻する。尾野山城を攻略。海野棟綱、真田幸隆、根津政直ら滋野一族を撃破。海野幸義を討ち取る。 真田領・小県郡を制圧。 矢沢頼綱が降伏する。 |
1548 | 48 | ”上田原の戦い”武田晴信(信玄)が小県郡に侵攻してくるが、撃退する。板垣信方、甘利虎泰、才間信綱を討ち取る。 武田氏との同盟が破談。 武田領・内山城を攻めるが、飯富虎昌に退けられる。 |
1550 | 50 | 高梨政頼を攻める。 ”砥石崩れ”武田晴信に留守の砥石城を攻められる。高梨政頼と和睦して戻ると撃退。退却する武田軍を追撃して大勝する。 |
1551 | 51 | 矢沢頼綱が真田幸隆に内通、砥石城を武田氏に奪われる。 |
1553 | 53 | 村上派だった信濃国衆が相次いで武田晴信に降る。 武田晴信と光城、上ノ山城、刈谷原城で争い連敗する。葛尾城を一時放棄するが、武田軍が退いたのちに奪還。 塩田城に篭って武田晴信と争うが敗れ、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後国に亡命し配下になる。 ”第1次川中島の戦い”武田晴信との戦に参加。内山城を攻めるが飯富虎昌に退けられる。 長尾景虎から根知城を拝領する。 根知城を居城にする。 |
1555 | 55 | ”第2次川中島の戦い”武田晴信との戦に参加。 |
1557 | 57 | ”第3次川中島の戦い”武田晴信との戦に参加。 |
1561 | 61 | ”第4次川中島の戦い”武田信玄との戦に参加。雨宮の渡しの守備を任され高坂昌信の別働隊と戦う。 |
1564 | 64 | ”第5次川中島の戦い”武田信玄との戦に参加。 |
1573 | 73 | 越後国・根知城で病死。 |

当サイトは「Amazonアソシエイト・プログラム」「Rakutenアフィリエイト」に参加しています。