柿崎景家
1513.?〜 1574.12.5

柿崎景家は、現在の新潟県にあたる越後国の武将です。上杉四天王のひとり。つねに上杉謙信の先鋒を担った猛将で、中国地方にまでその名を轟かせました。川中島の戦いでは、武田信繁と山本勘助を討ち取る大車輪の活躍で、武田軍を窮地に追い込みました。織田信長への内通を疑われて死罪になった説あり。享年62。
- 生年月日
- 永正10年(1513年)
- 出生地
- 越後国 柿崎城(新潟県上越市柿崎区柿崎)
- 没年月日
- 天正2年11月22日(1574年12月5日)病死
- 終焉地
- 越後国 柿崎城(新潟県上越市柿崎区柿崎)
- 柿崎景家の武将タイプ
- 猛将
柿崎景家は何をした人?このページは、柿崎景家のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと柿崎景家が好きになる「川中島の戦いで無双したのに信長との内通を疑われた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:柿崎景家
- 別 名:弥次郎
- 官 位:和泉守
- 出身地:越後国(新潟県)
- 居 城:柿崎城
- 正 室:黒田秀忠の娘
- 子ども:3男
- 跡継ぎ:柿崎晴家
- 父と母:柿崎利家
- 大 名:長尾為景 → 長尾晴景 → 上杉謙信
川中島の戦いで無双したのに信長との内通を疑われた
歴史シミュレーションゲームが好きな人なら、柿崎景家といえば上杉家にいるメチャクチャ強い武将で知っているのではないでしょうか?
柿崎景家とは、上杉謙信の先陣をつとめた武将で『北越太平記』には「向かうところ鉄をも通すほどの者」と、凄まじい突破力を思わせる表現がされている人物です。
鉄を貫くなんてそんな馬鹿なと思いますが、あまりに強かったので、越後で無双する柿崎景家の剛将ぶりは、遠く離れた中国地方まで聞きおよんだといいます。
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川中島の戦いで
剛勇無双の大暴れ
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上杉謙信と武田信玄の激闘が伝説となった1561年の川中島の戦いで、柿崎景家はまさに鉄をも突き通す大活躍をします。
両者の駆け引きを制した上杉軍の先制攻撃から開戦した川中島の戦いは、柿崎景家が先陣をきって武田陣営に突撃し、瞬く間に武田軍を劣勢に追いこみます。
柿崎景家の部隊は、武田軍の副将・武田信繁(信玄の弟)に突撃して討ち取ると、勢いを増して、武田軍の軍師・山本勘助の隊にも突撃して討ち取ってしまいました。
副将と軍師をつづけて討ち取られた武田軍は完全にパニック。柿崎隊が切り裂いた武田本陣の様子をみた上杉謙信は、武田信玄めがけて突入し、信玄を刀で斬りつけました。
謙信と信玄、大将同士の一騎討ちの名場面まで飛び出した川中島の戦いは、柿崎景家の突撃にはじまり、後世まで語り継がれる名勝負となりました。
柿崎景家は、キャリアハイとなった一戦で、戦闘力90超えの猛将を印象づけたのです。
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馬が見事だったせいで
内通を疑われる
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柿崎景家が不要な馬を畿内(京都周辺)の馬市に売りに出したことから、柿崎景家は上杉軍筆頭格であったにもかかわらず謀反を疑われてしまいます。
売りに出ていた越後の馬をみた織田信長が、柿崎景家の馬を高値で買いました。よほど気に入ったのか、信長は馬の持ち主に贈品とお礼状を送りました。
信長が余計なことをしたせいで、柿崎景家は信長との個人的な交流を疑われ、内通の罪で処刑されてしまいます。
これは『景勝公一代略記』に書かれているもので、1575年に越中国に出陣中だった柿崎景家に織田信長との内通の噂が流れ、死罪にされたという俗説です。
柿崎景家には、1577年にクーデターを企てて処刑された説もあります。実際のところどちらの説も信ぴょう性は低いと考えられており、事実とは異なるようです。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1513年、柿崎景家は越後国・柿崎城に柿崎利家の子として生まれます。上条定憲を裏切って長尾為景に味方して長尾氏に仕えます。為景の死後は長尾晴景に仕えますが、長尾氏の内紛では晴景の弟・景虎(上杉謙信)を推し、家督相続を助けました。
上杉謙信の片腕として活躍
七手組大将、先手組3百騎の大将として上杉軍の先鋒隊をつとめます。川中島の戦いをはじめ、すさまじい戦果をあげました。上杉謙信が関東管領に就任する式典では、太刀持ちの大役を任されるなど、家臣団を代表する存在になります。
最後と死因
上杉氏と北条氏が仲直りする同盟の成立させたのち、柿崎景家は越後国・柿崎城で亡くなりました。1574年12月5日、死因は病気。62歳でした。1575年に越中国・水島に出陣中、謀反を疑われて死罪にされた説もあります。
柿崎景家の性格と人物像
柿崎景家は「誤解されがちな人」です。
成果をあげようと一生懸命に頑張って、良くも悪くも噂がひとり歩きしてしまいます。
めったに人を褒めることがない上杉謙信から「和泉(柿崎景家)に分別があれば、越後七郡で敵う者無し」と称されています。(超訳:もうちょっと頭が良ければ最強)
謙信のこの一言と、中国地方まで知れ渡ったという武勇が、柿崎景家=バカ強い単細胞といったイメージにつながってしまったようです。
実際には、洞察力に優れ、ここぞというときの決断力があるタイプで、なにより主君思いの忠臣でした。
黒田秀忠の娘を妻にしていましたが、黒田が謙信に謀反を起こすと即座に離縁し、黒田討伐軍に加わりました。上杉氏と北条氏の和睦交渉では、実子がいない謙信に代わって自分の子どもを人質に出し、同盟を成功させています。
主家のためとはいえ、主君・謙信の恋愛にまで踏みこみ、無理やり別れさせたことがあります。
能力を表すとこんな感じ

柿崎景家といえば比類なき武力の猛将です。といっても、いわゆる脳筋ではなく、奉行職や外交面でも能力を発揮するマルチプレイヤーでした。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する柿崎景家の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
柿崎景家の面白い逸話やエピソード
上杉謙信の恋愛を邪魔してしまう
生涯、妻を持たなかったことで有名な上杉謙信ですが、40歳くらいのころにいい仲になった娘さんがいました。
謙信と恋仲になったのは伊勢姫という若い女性で、伊勢姫は謙信と敵対する千葉采女の娘。人質として上杉家に預けられたのですが、謙信公は伊勢姫のことが好きになってしまいます。
ふたりは庭園などでキャッキャウフフとデートを重ねます。この様子を快く思わなかった柿崎景家は「敵方の娘と深い仲になるなどとんでもない」と猛反対。なかば強引に引き離してしまいます。
伊勢姫は失恋のショックから出家。数か月後に19歳の若さで自決してしまいます。これを知った謙信は「もう恋なんてしない」と悲しみ、妻を持たなかったとか。
柿崎景家の有名な戦い
越後守護・上杉氏の上条定憲が、越後守護代・長尾為景の討伐を試みた合戦。保倉川にかかる三分一橋の付近一帯(新潟県上越市頸城区)で両軍は激突。兵力で勝った上条方だったが、柿崎景家の裏切りによって形勢は逆転。柿崎隊に本陣を攻められて上条方は崩壊、敗退した。
三分一原の戦いで柿崎景家は勝っています。
上条定憲の陣営で参戦しますが、開戦直後に寝返って長尾為景の味方をします。定憲の本陣に突撃し、敗走させました。景家が加担した長尾為景は、越後の第一勢力として権力を強めます。
北条氏を討伐するため北条氏政が篭る小田原城(神奈川県小田原市城内)を長尾景虎が包囲した合戦。関東の諸将を募って10万を越える兵で迫った。関東勢の太田資正が蓮池門に突入したが、隠居した北条氏康らの粘り強い守りもあって、1か月攻めても落城する気配はなかった。
小田原城の戦いで柿崎景家は引き分けています。
北条氏の居城・小田原城の包囲戦に加わっています。このあと、鶴岡八幡宮で行われた関東管領の就任式では、上杉政虎(謙信)の太刀持ちを務めました。
北信濃を国人衆のもとに取り戻そうとする上杉謙信と、これを支配しようとする武田信玄の合戦。千曲川(長野県長野市小島田町)を挟んで5回対戦したが、決着はつかず。激戦となった第4次・八幡原の戦いでは、謙信が武田本陣に突撃し、信玄を斬りつけたエピソードがある。
川中島の戦いで柿崎景家は引き分けています。
柿崎景家のターニングポイントになった戦いです。
第4次・八幡原の戦いで上杉軍の先鋒として出撃した柿崎隊は、武田信玄の弟・武田信繁の隊に突撃して信繁を討ち取っています。武田軍本陣を守って奮闘する信玄の軍師・山本勘助も討ち取りる功績をあげました。
柿崎景家の詳しい年表と出来事
柿崎景家は西暦1513年〜1574年(永正10年〜天正2年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍した武将です。
| 1513 | 1 | 柿崎利家の子として越後国に生まれる。 |
| 1536 | 23 | ”三分一原の戦い”初陣。上条定憲の指揮下で参加。長尾為景に寝返り上条本陣を攻め落とす。 |
| 1545 | 33 | ”黒滝城の戦い”舅・黒田秀忠が長尾氏に叛く。黒田の娘と離縁して討伐に向かう。 |
| 1546 | 34 | 黒田秀忠が長尾氏に叛く。討伐に向かう。 |
| 1553 | 41 | ”第1次川中島の戦い”武田晴信(信玄)との戦に参加。 |
| 1555 | 43 | ”北条城の戦い”北条高広との戦に参加。 ”第2次川中島の戦い”武田晴信との戦に参加。 |
| 1557 | 45 | ”第3次川中島の戦い”武田晴信との戦に参加。 |
| 1558 | 46 | 春日山城の留守居役を務める。 |
| 1560 | 48 | 北条領・上野国攻めに参加。 ”第1次唐沢山城の戦い”佐野昌綱の援軍に参加。 |
| 1561 | 49 | 北条領・武蔵国、相模国攻めに参加。 ”小田原城の戦い”北条氏康との戦に参加。 上杉政虎(長尾景虎=上杉謙信)が相模国・鶴岡八幡宮で関東管領職の就任式を行う。太刀持ちを務める。 ”第4次川中島の戦い”武田信玄との戦に参加。先鋒隊を率いて武田信繁、山本勘助を討ち取る。 |
| 1562 | 50 | 神保領・越中国攻めに参加。 |
| 1564 | 52 | ”第5次川中島の戦い”武田信玄との戦に参加。 |
| 1570 | 58 | 北条氏康と講和を結ぶ使者を務める。長男・晴家を人質に出して同盟を締結させる。 |
| 1574 | 62 | 越後国・柿崎城で病死。 |



