あらき むらしげ

荒木村重

1535.?〜 1586.6.20

荒木村重の面白いイラスト

荒木村重(道薫)は、現在の現在の大阪府北中部にあたる摂津国の武将です。利休十哲のひとり。織田信長に認められて摂津一国を治める大名に出世しますが、とつぜん謀反を起こします。信長に居城を攻められ、妻子を置き去りにして逃亡しました。茶器の価値がわかる才があり、晩年を茶人として過ごします。享年52。

生年月日
天文4年(1535年)
出生地
摂津国(大阪府北中部)
没年月日
天正14年5月4日(1586年6月20日)不明
終焉地
摂津国 堺(大阪府堺市堺区北部)

荒木村重は何をした人?このページは、荒木村重のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと荒木村重が好きになる「信長を裏切って謀反を起こし家族を捨てて逃亡し続けた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:荒木村重 → 荒木道薫
  • 幼 名:十二郎
  • 別 名:弥介、弥助
  • 官 位:信濃守、摂津守
  • 出身地:摂津国(大阪府)
  • 領 地:摂津国
  • 居 城:茨木城 → 有岡城
  • 正 室:池田長正の娘、だし(北河原三河守の娘)
  • 子ども:3男 ほか
  • 跡継ぎ:荒木村次
  • 父と母:荒木義村 / 中川佐渡守妹
  • 大 名:織田信長

信長を裏切って謀反を起こし家族を捨てて逃亡し続けた

まんじゅうをくわえさせられている変な絵が一度みたら忘れられない荒木村重は、信長をマジギレさせた謀反人(むほんにん)です。つかまりそうになると逃走(とうそう)し、信長に地団駄(じだんだ)()ませました。

摂津(せっつ)の国人であった荒木村重は、織田信長が任命した『摂津(せっつ)三守護』池田勝正、和田惟政、伊丹親興をやぶり、摂津(せっつ)一国を支配するに至ります。

このような背景には、織田信長と敵対する将軍・足利義昭や三好三人衆とのいざこざがあり、将軍方に味方した摂津(せっつ)三守護をやっつける口実で、荒木村重は便乗しました。

摂津国(せっつのくに)をすっかり手に入れた荒木村重は信長に従う姿勢を強調し、信長もそれをおおいに気に入ります。信長は「荒木村重に摂津国(せっつのくに)を任せる」とまで言いました。

信長のハートをがっちりつかんだ荒木村重のサクセスストーリーは順風満帆(じゅんぷうまんぱん)⋯⋯とはいかず、不名誉(ふめいよ)な歴史を刻む大迷走がはじまるのでした。


まさかの謀反
まさかの妻子置き去り

1571年の白井河原の戦いに勝利した荒木村重をすっかり気に入った信長は、あらゆる戦場に(かれ)を送りこみ、前線で酷使します。そのような日常が数年つづいた1578年の秋、荒木村重は居城である有岡城で、とつぜん信長に対して反旗をひるがえします。

状況(じょうきょう)が飲みこめない信長から、説得の使者として小寺孝隆(黒田官兵衛)が有岡城にやってきますが、なんと荒木村重はこれを()らえて地下牢(ちかろう)に閉じこめてしまいます。

(おこ)った信長は、集められるかぎりの兵を動員して有岡城に()めてきました。荒木村重は10か月ほど抵抗(ていこう)しますが、深い闇夜(やみよ)の晩、大切にしていた茶器を持ってこっそり夜逃(よに)げします。

荒木村重は妻子を置き去りにして夜逃げした

これに(おどろ)いたのは荒木村重の妻子たち。5、6人の側近を連れてパパが逃亡(とうぼう)したのです。茶壺(ちゃつぼ)は持っていったのに、妻子は置き去り。有岡城に残されたすべての人と、包囲していた織田軍のあいだに「え〜!?」という空気が流れます。

小さな(ふね)で有岡城から()げ出した荒木村重は、尼崎城(あまがさきじょう)花隈城(はなくまじょう)を転々とします。なんとしても討ち果たしたい信長が追手を送りますが、すんでのところで()げかわしました。


置き去りにされた妻子ら
670人が処刑される

あと一撃(いちげき)が届かずに()げ回るはぐれ村重。信長の我慢(がまん)はとうに限界を()えていました。

荒木村重のもとに織田信長から「有岡城にいた一族郎党(ろうとう)処刑(しょけい)する」という(おど)しが届きます。荒木村重はこれを受け入れません。しかも、使者として訪れた池田知正もそのまま逃走(とうそう)。こちらも人質を見捨てたのでした。

かくして、織田信長の逆鱗(げきりん)にふれることとなった荒木村重。
置き去りにされた人質たちは、不憫(ふびん)に思われつつも、全員が処刑(しょけい)されてしまいます。

尼崎城(あまがさきじょう)の近く、七つ松という場所に97本の磔柱(はりつけばしら)が立てられ、荒木村重と家臣の妻子ら122名鉄砲(てっぽう)()たれました。続いて、男性124名女性388名が4(けん)の農家に入れられ、生きたまま火をつけられました。

この時の様子は「人々が魚の群れのように折り重なり、苦しみ(もだ)え、()ね上がり飛び回った。地獄(じごく)の責め苦もこれほどではないだろう」と伝えられています。

荒木村重の逃走(とうそう)には、総勢670人という戦国時代でも異例の大虐殺(だいぎゃくさつ)代償(だいしょう)になりました。


信長、死んだの?
ちゃっかりカムバック

はぐれ村重はというと、花隈城(はなくまじょう)()もっていたところを織田家臣・池田恒興にぶっこまれますが、これもギリギリで逃亡(とうぼう)します。1580年に毛利氏を(たよ)って備後国・尾道(おのみち)まで()げました。

1582年の本能寺の変で織田信長が死亡したのを知って、のこのこと摂津国(せっつのくに)にもどり、荒木道薫と名を改めて茶人として復活。第二の人生を歩みはじめます。

千利休に弟子入りし、ちゃっかり『利休十哲(じってつ)』に名を連ねるのでした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1535年、荒木村重は摂津国(せっつのくに)に荒木義村の子として生まれます。はじめは摂津(せっつ)国衆の池田勝正の家来でした、勝正を追放して実権を(にぎ)ります。白井河原の戦いでの勝利をきっかけに織田信長に接近し、信長から摂津(せっつ)一国を任される大名に出世しました。

信長を裏切って逃げまわる

織田信長と石山本願寺の戦いが激しさを増すなか、毛利氏の支援(しえん)を受けて信長を裏切ります。居城の有岡城を織田軍に()められ、ほどほどに戦ったのち城から()げてしまいます。その後も戦っては()げるをくり返し、備後国(びんごのくに)尾道(おのみち)の毛利氏のもとへ()げこみました。

最後と死因

ほどなくして本能寺の変で織田信長が討たれると(さかい)(もど)り、千利休に弟子入り。豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として晩年を過ごし、荒木村重は摂津国(せっつのくに)(さかい)で亡くなりました。1586年6月20日、死因は不明。52歳でした。(さかい)の南宗寺に埋葬(まいそう)されました。

領地と居城

荒木村重の領地・勢力図(1574年)

摂津国(せっつのくに)36万石と河内国(かわちのくに)北部2万石が荒木村重の領地でした。器量を見込(みこ)んだ織田信長から、有岡城などの重要な拠点(きょてん)(あた)えられていました。

荒木村重の性格と人物像

荒木村重は「損切りの天才」です。

成り上がりや下剋上(げこくじょう)をねらう野心家ですが、じつは冷静なリスクマネジメント能力こそ、同時代を生きる他者に勝るストロングポイントです。

妻子の置き去りや城を捨てて()げる行為(こうい)も、敵も味方も(あざむ)くこれ以上ない方法であり、血筋の断絶という最悪のシナリオを回避(かいひ)しています。ひどいやりかたですが。

今乱世に生まれたるこそ幸なれ” という名言を残しています。乱世に生まれたことを幸運と考え、己の才覚で飛躍(ひやく)できるという自信の表れでもあります。

能楽と茶道が趣味(しゅみ)粗野(そや)風貌(ふうぼう)に反して繊細(せんさい)な美的感覚があり、千利休の優秀(ゆうしゅう)な弟子のひとりにも数えられています。

大きな赤ちゃんで生まれ、子どものころから怪力(かいりき)で、あきれるほどの食いでした。12歳のとき、父を碁盤(ごばん)の上に座らせて持ち上げ、部屋を3周まわってみせたといいます。

茶器の目利きでした。有岡城から脱出(だっしゅつ)する際に持ち出した『兵庫壺(ひょうごつぼ)』は残っていませんが、荒木の(めい)がつく高麗茶碗(こうらいちゃわん)荒木高麗(こうらい)』が現存しています。

村重が置き去りにした妻・だしは、中国の美女・楊貴妃(ようきひ)に例えられるほどの美貌(びぼう)で『今楊貴妃(いまようきひ)』と呼ばれていました。

家族を見殺しにした過去を()じて、荒木道糞と名乗ったといい、豊臣秀吉に(さと)されて道薫に変えたという話がありますが、これはフィクションのようです。

江戸時代に数々の傑作(けっさく)を残した絵師・岩佐又兵衛は、荒木村重の末っ子です。

能力を表すとこんな感じ

荒木村重の能力チャート

なりふり構わず生き残れる図太さが荒木村重の強みです。他人を出し()知恵(ちえ)は、傑物(けつぶつ)と呼ぶにふさわしいずる(がしこ)さです。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する荒木村重の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

荒木村重の面白い逸話やエピソード

まんじゅうを刀でグサッ!ありがたく食べる

大きなまんじゅうがまるであごのようにも見える髭面(ひげづら)の武者。一枚の奇妙(きみょう)な絵が荒木村重のキャラを確立したといっても過言ではありません。これは江戸時代に書かれた『絵本太閤記(たいこうき)』の「荒木村重が(もち)を食らう」場面の描写(びょうしゃ)です。

村重が、織田信長に拝謁(はいえつ)したおり「摂津国(せっつのくに)は13郡分国にて、城を構えて兵を集めています。それがしに切り取りを申し付ければ(しず)めてみせます」と豪語(ごうご)しました。

これを聞いた信長は、腰刀(こしがたな)の先に3〜5個のまんじゅうを()して「食してみろ」と村重に()き出します。

荒木村重が餅を食らうの図

まわりは(みな)ドン引きしましたが、村重は「ありがたくちょうだいします」と言って、大きな口でまんじゅうをほおばりました。

信長は大笑い。荒木村重の胆力(たんりき)称賛(しょうさん)し、摂津(せっつ)一国を任せたといいます。

兵庫県伊丹市(いたみし)老舗和菓子屋(しにせわがしや)御菓子司(おんかしつかさ)・中満から「あっぱれ村重まんじゅう」なるものが商品化されています。表面に村重くんがプリントされたキュートな一口まんじゅうです。

余計な一言で秀吉をキレさせてしまい逃亡する

荒木村重が有岡城から逃亡(とうぼう)せざるを得なくなった理由として、高槻城(たかつきじょう)を預けていた高山右近が織田方に寝返(ねがえ)った背景がありました。そのため村重は、信長への謀反(むほん)が失敗したのは高山右近のせいだと根に持っていました。

荒木道薫に改名して茶人として過ごしていた村重は、あるとき豊臣秀吉の茶会に出席します。その席で秀吉は、右近を勇敢(ゆうかん)で親切な男と()めました。

すると村重は間髪(かんぱつ)入れずに「そんなことはありません。殿下(でんか)(たた)えている勇敢(ゆうかん)さは見せかけで、本物ではありません」と右近を批判します。気分を害した秀吉は「お前は出ていけ」と村重を追い出しました。

その後、しばらく秀吉と会うことはありませんでしたが、茶会でのことが面白くなかった村重は、秀吉の悪口を言ってまわります。

この(うわさ)を聞いた秀吉の正室・北政所は村重に叱責(しっせき)します。秀吉に知られたら処刑(しょけい)されると思った村重は、またもや妻と家を捨てて、身ひとつで寺に転がりこみました。

北政所の叱責(しっせき)は村重の身を案じた忠告でもあり、瞬時(しゅんじ)に危機を察した村重はすぐさま逃亡(とうぼう)して難を(のが)れたのでした。さすがの逃走(とうそう)スピードでした。

荒木村重の有名な戦い

金ヶ崎の戦い かねがさきのたたかい 1570.6.3 ● 織田&徳川軍3万 vs 浅井&朝倉軍2万5千 ○

越前の朝倉義景を攻めていた織田信長を朝倉軍と浅井軍が金ヶ崎(福井県敦賀市金ヶ崎町)で挟み撃ちにした戦い。浅井長政の裏切りによって、織田軍は撤退を余儀なくされる。木下秀吉が、客将として参戦していた明智光秀ととも撤退戦の殿を担い、信長を無事に逃げさせた。

金ヶ崎の戦いで荒木村重は敗れています。

池田勝正と共に織田軍に加わっていた村重は、3千の兵で金ヶ崎に留まって信長の退却(たいきゃく)を助けています。このとき殿(しんがり)を務めたのは豊臣秀吉と知られていますが、村重の兵こそ殿(しんがり)の主力であったとする見方もされています。

白井河原の戦い しらいかわらのたたかい 1571.9.17 ○ 池田軍4千8百 vs 茨木軍5百 ●

池田氏の実権を握った荒木村重と、幕府の支援を受けて対抗した茨木&和田軍の合戦。白井河原(大阪府茨木市)を挟んで対峙した両軍だったが、無勢の和田惟政が無謀な突撃をし、中川清秀が討ち取った。茨木重朝は荒木勢の本陣に突進したが、伏兵に囲まれて全滅した。

白井河原の戦いで荒木村重は勝っています。

荒木村重のターニングポイントになった戦いです。
山陰(やまかげ)伏兵(ふくへい)(しの)ばせていた村重は、突進(とっしん)してきた茨木重朝を囲い討ちにします。乱戦で村重は重朝に傷を負わされますが、自ら討ち取りました。この勝利で信長から一目置かれます。

天王寺砦の戦い てんのうじとりでのたたかい 1576.6.3 ● 本願寺&雑賀軍1万5千 vs 織田軍?○

対石山本願寺のために織田軍が築いた天王寺砦(大阪府大阪市天王寺区)で行われた攻防戦。雑賀衆の加勢を受けて勢いづく本願寺軍が砦を攻め、明智光秀ら守勢が窮地に陥る。急遽援軍の動員令を出すが間に合わず、織田信長が3千の兵で砦に駆けつけ、敵を追い散らした。

天王寺砦(てんのうじとりで)の戦いで荒木村重は勝っています。

木津(きづ)方面の守備を理由に先陣(せんじん)を断っています。のちに村重が謀反(むほん)を起こすと、信長は「あのとき荒木に先陣(せんじん)をさせなくてよかった」と回想しています。

有岡城の戦い ありおかじょうのたたかい 1578.7.?〜 1579.11.7 ○ 織田軍5万 vs 荒木軍1万 ●

突如、反旗を翻して有岡城(兵庫県伊丹市)に立て籠もった荒木村重を織田軍が包囲した。堅牢な有岡城で長期間戦った村重だったが、わずかな側近を連れて城を脱出。城兵は開城降伏。織田信長の怒りは収まらず、村重の一族郎党が処刑された。伊丹城の戦いとも。

有岡城の戦いで荒木村重は敗れています。

一度は信長に弁明するつもりでしたが、中川清秀に説得されて有岡城で反旗を(ひるがえ)します。包囲を受けて抗戦(こうせん)しましたが、家族も部下も置いて尼崎城(あまがさきじょう)()げました。

花隈城の戦い はなくまじょうのたたかい 1580.3.17 〜 8.12 ○ 織田軍? vs 荒木軍?●

織田氏に叛いた荒木村重が逃亡し、花隈城(兵庫県神戸市中央区花隈町)に立て篭もった合戦。荒木討伐軍を率いた池田恒興は、息子たちと共に奮戦、自らも数名を討ち取った。村重は毛利氏のもとに逃亡。雑賀衆の援軍もあり、織田勢は花隈城を開城させ、廃城とした。

花隈城(はなくまじょう)の戦いで荒木村重は敗れています。

有岡城を脱出した村重は、尼崎城(あまがさきじょう)を経由して花隈城(はなくまじょう)()げこみます。花隈城(はなくまじょう)からも逃走(とうそう)し、荒木村重の謀反騒動(むほんそうどう)は終結しました。

荒木村重の詳しい年表と出来事

荒木村重は西暦(せいれき)1535年〜1586年(天文(てんぶん)4年〜天正(てんしょう)14年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍(かつやく)した武将です。

15351荒木義村の子として摂津国に生まれる。幼名:十二郎
池田長正の娘と結婚。
156733”東大寺大仏殿の戦い”松永久秀との戦に参加。
156935三好三人衆に足利義昭が襲撃される。救援に駆けつける。【本圀寺の変】
157036”金ヶ崎の戦い”朝倉義景との戦に参加。最後尾で信長本隊の退却を助ける。
三好三人衆と共謀して主君・池田勝正を追放する。次代・池田知正を擁立する。
157137”白井河原の戦い”和田惟政ら幕府と交戦する。伏兵で茨木重朝を討ち取る。
摂津国・茨木城、郡山城を攻略する。
三好三人衆と高屋城を攻める。
松永久秀と高槻城を接収しようする。明智光秀に追い払われる。
摂津国・池田城に入る。
織田信長に仕える。
157339摂津国・茨木城を居城にする。
”若江城の戦い”三好義継との戦に参加。先陣を務める。三好家滅亡
池田知正が織田信長に降伏。池田知正を従える。
157440伊丹領・伊丹城を攻め落とす。伊丹親興を自害させる。
有馬郡を掌握する。
摂津国・伊丹城を有岡城に改名、居城にする。
芥川山城と越水城を廃城にする。
157541浦上氏の内乱に介入。浦上宗景を支援する。
”第2次高屋城の戦い”三好康長&石山本願寺との戦に参加。
”越前一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。
157642”天王寺砦の戦い”石山本願寺との戦に参加。先陣を断り木津方面の守備を引き受ける。
157743”第1次紀州征伐”雑賀衆との戦に参加。
157844”三木合戦”羽柴秀吉の指揮下で三木城の包囲作戦に加わる。戦線を離脱して有岡城に戻る。
明智光秀、松井友閑らの説得で安土城に釈明に向かう。途中、中川清秀の進言を受けて有岡城に引き返す。
“有岡城の戦い”織田氏に叛き有岡城に篭もる。高山右近、中川清秀が織田氏に降伏したため孤立。説得にきた小寺孝隆(黒田官兵衛)を捕縛して幽閉する。
157945有岡城から逃亡。織田信長から投降を勧告され、拒否する。一族、家臣の妻子ら全員が織田信長に処刑される。
摂津国・花隈城に篭もる。
158046”花隈城の戦い”織田家臣・池田恒興に花隈城を攻められる。花隈城から逃亡。
毛利氏を頼って備後国・尾道に移る。
158248織田信長が死亡。【本能寺の変】
158349改名 → 荒木道薫
津田宗及の茶会に出席する。
豊臣秀吉の御伽衆になる。
158652摂津国・堺で死去。
戦国時代で荒木村重が生きた期間の表
荒木村重の顔イラスト
お仕事のご依頼はこちら