長宗我部元親
1539.?〜 1599.7.11

長宗我部元親は、現在の高知県にあたる土佐国の武将・大名です。姫若子と呼ばれた貧弱な少年で初陣も22歳と遅めでしたが、瞬く間に頭角を現します。一領具足という特殊な軍制を背景に四国統一を目指し、あとわずかのところまで迫りますが、織田信長に阻まれ、豊臣秀吉に屈して野望が潰えます。享年61。
- 生年月日
- 天文8年(1539年)
- 出生地
- 土佐国 岡豊城(高知県南国市岡豊町八幡)
- 没年月日
- 慶長4年5月19日(1599年7月11日)病死
- 終焉地
- 山城国 伏見屋敷(京都市伏見区桃山町)
- 長宗我部元親の武将タイプ
- 侵略
長宗我部元親は何をした人?このページは、長宗我部元親のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと長宗我部元親が好きになる「あと少しで四国統一というところで信長に振り回された」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:長宗我部元親
- 幼 名:弥三郎
- あだ名:姫若子、鬼若子、土佐の出来人、南海道一の弓取り、鳥なき島の蝙蝠
- 官 位:従五位下、従四位下、宮内少輔、土佐守、侍従
- 戦 績:61戦 47勝 12敗 2分
- 出身地:土佐国(高知県)
- 領 地:四国地方
- 居 城:岡豊城 → 白地城 → 大高坂城 → 浦戸城
- 正 室:元親夫人(石谷光政の娘)
- 子ども:5男 4女 ほか
- 跡継ぎ:長宗我部盛親
- 父と母:長宗我部国親 / 祥鳳玄陽
- 大 名:長宗我部氏21代当主
あと少しで四国統一というところで信長に振り回された
長宗我部元親は、四国統一まであと一歩ということろまで迫った大名です。目覚ましい躍進をしたことから『土佐の出来人』と称されました。
マニアックな戦国武将のなかでも根強い人気があり、最強の武将に長宗我部元親を推す声も多く聞かれます。
長宗我部元親の四国制覇には、織田信長と豊臣秀吉というふたりの天下人が大きな壁として立ちはだかりました。天下人の存在に翻弄されながらも「四国は俺のもの」というスタンスを崩さず、たくましく生きたのでした。
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信長のお墨付き
四国は切取次第でヨシ!
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土佐では『土佐七雄』と呼ばれる豪族たちが覇権を争っていました。長宗我部氏は、土佐七雄のなかでも最弱の勢力でしたが、長宗我部元親の父・長宗我部国親の代で徐々にちからを強めます。
父の代からの悲願であった本山氏の打倒を果たした長宗我部元親は、つづいて安芸氏、津野氏を倒し、1575年の四万十川の戦いで一条兼定に勝利して土佐国を手に入れました。
このころ、京都では室町幕府を滅ぼした織田信長が織田政権を樹立します。長宗我部元親の活躍は信長の知るところとなりました。
信長は「威勢の良いのがいるじゃないか」と認めつつも『鳥なき島の蝙蝠』(超訳:四国には鳥=強い武将がいないから、蝙蝠が好きにできる)と評して、なんだか馬鹿にしているようす。

信長から「四国はお前の好きにしていい」と言われた長宗我部元親は、阿波国や讃岐国を攻め取り、本当に好きなようにします。
四国をすべて手に入れかねない長宗我部元親に、信長がイライラしているのを感じつつ、おかまいなしに四国制覇を目指したのでした。
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信長の気が変わる
いまさら四国国分案
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1580年ごろ、阿波や讃岐では、三好勢力との戦いが続きます。織田信長の登場によって凋落した三好氏でしたが、かつては中央政権を握っていたこともあってなかなかしぶとい。
そんなおり、信長から三好氏との争いをやめるよう停戦を命じられます。さらに、あろうことか信長は三好康長に阿波国と讃岐国の領有を許可したのです。
おまけに信長は『四国国分案』なるものを策定し、信長が決めた人選で四国を治めると決めました。そこに長宗我部元親の名はありません。
こんなの話がちがう。
四国を自分のものにしてもいいというから織田信長に愛想をよくしていたのに。
長宗我部元親は信長と争うことを決意。もう信長から何を言われても無視しました。
ところが、なんのバチでしょうか。
1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれます。願ってもない機会を得た長宗我部元親は、すぐさま四国統一に動き、1584年までに四国のほとんどを手に入れます。
しかし、信長に代わって天下統一を目指す豊臣秀吉が台頭し、1585年に秀吉の四国征伐軍に敗れ、長宗我部元親の悲願は成りませんでした。
その後、秀吉に仕えた長宗我部元親は土佐一国の領有を認められます。「運悪く殿下(秀吉)と同じ時代に生まれたので天下の主になりそこねた」と気の利いた野心ジョークで秀吉を喜ばせたとか。
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即レス部隊
一領具足
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長宗我部元親が四国統一に迫ったバックには『一領具足』という独自の兵士制度がありました。
一領具足とは、ふだん農業をしているときも武具一式を傍らに置き、いざというときにその場で武具を身に着けて駆けつける地侍のこと。

半農半士を進化させたシステムで、圧倒的な招集スピードが最大のメリットでした。
長宗我部元親は統治にも長けており、独自の分国法『長宗我部元親百箇条』を定めて領民の年貢規定や武士のルールを統制しました。
豊臣秀吉が実施した太閤検地の一環として長宗我部元親が行った『長宗我部地検帳』には、土佐国の検地情報が事細かに記され、今も完全な状態で現存しています。
長宗我部元親には四国を統一できるだけの実力がありましたが、信長に約束をやぶられたこと、信長が死亡したあとの秀吉の動きが早すぎたことが不運でした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1539年、長宗我部元親は土佐国・岡豊城に長宗我部国親の長男として生まれます。長浜の戦いで初陣、その直後に急死した父の跡を継ぎます。本山氏、安芸氏をやぶり、一条氏の内紛を利用して土佐国を統一しました。阿波国、讃岐国、伊予国へ進出し、四国統一を目指します。
四国統一と天下人の壁
京で政権をもった織田信長と緊張が高まり、領土の統治をめぐって対立しますが、あわやというところで信長が本能寺の変で倒れます。この機会にふたたび四国制覇を目指しました。しかし、信長に代わって台頭した豊臣秀吉の大軍に攻められ、やむをえず降伏しました。
最後と死因
天下統一へ進む豊臣秀吉の斬りこみ隊として九州征伐に参戦し、戦いで長男を失ってしまいます。四男をかわいがるあまり、三男を幽閉してしまうなどの荒れた晩年を過ごした長宗我部元親は山城国・伏見屋敷で亡くなりました。1599年7月11日、死因は病気。61歳でした。
領地と居城の移り変わり



四国の大半、74万石が長宗我部元親の領地でした。伊予国の一部を制しきれなかったとされるものの「四国を統一していた説」もあります。最終的には土佐国のみ領有が認められました。
長宗我部元親の性格と人物像
長宗我部元親は「裏と表の差が激しい人」です。
和気あいあいとした雰囲気をつくるのが上手で、誰もが心をひらける人柄です。一方で、戦いとなると激烈な闘争心を見せる別人です。
四国統一にこだわった理由は、家臣とその家族が安全で豊かに暮らしていけるようにするため。秀吉からまんじゅうをもらったときも、家臣に分けてあげたいと持ち帰っています。
いくさにおいても思いやりの気持ちを忘れません。敵を兵糧攻めにした際も、稲をぜんぶ刈り取っては気の毒として、飢えない程度に少しずつ刈りました。
人を喜ばせるのが得意です。浦戸湾内に迷いこんだクジラを捕獲して、生きたまま大坂に運び、そのまま秀吉に献上して民衆を沸かせています。
土佐領内で禁酒令を出したことがあり、にもかかわらずうっかり城内にお酒を運ばせてしまい、家臣に叱られて反省したことも。
長男・信親を亡くしてから一変。四男・盛親に継がせたいという理由で三男を閉じ込めてしまい、反対する家臣の意見に聞く耳を持たず皆殺しにしています。
「一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず」と話しており、ひとつのことに打ちこむ努力家です。勤勉で、儒教に強い関心がありました。文学も好み、家臣にも奨励しています。
子どものころは色白で中性的な容姿でした。内気で、あいさつもろくに返せず、武芸なんてもってのほか。父・長宗我部国親も、元親を跡継ぎにしてよいものか悩んでいます。
『元親記』には「律儀第一の人」と評されていますが『細川三好君臣阿波軍記』によると「不仁不義の悪人」となっています。
能力を表すとこんな感じ

知恵がまわり、策略や謀略に長けている点が長宗我部元親の強みです。スイッチが入ったときの過激さも推進力の支えとなっています。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する長宗我部元親の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
長宗我部元親の面白い逸話やエピソード
姫若子と呼ばれた貧弱な少年から鬼若子に豹変
幼少期の長宗我部元親は『姫若子』と揶揄されていました。
色白でおとなしく、見るからに弱そうだったのです。
ふつうは15歳くらいで初陣するのに、元親の初陣は22歳のとき。槍の扱い方がわからず、出陣前になって家臣に使い方を聞くありさま。聞かれた家臣も「とにかく目を突けばいい」と雑なレクチャー。
教わったとおりに元親はグサグサと敵を突きまくり、騎馬兵2人を討ち取ります。50人の部隊で70あまりの首を取り、父の制止も聞かずに敵を追撃して潮江城を奪い取りました。

まったく予想していなかった元親の悪鬼のような活躍に、父・国親もびっくり。豹変ぶりにドン引きした家臣からは『鬼若子』と呼ばれるようになったのでした。
本能寺の変に関わりがあったかもしれない
1582年に起こった本能寺の変は、日本史最大のミステリーといわれる大事件です。
天下統一を目前にしていた織田信長が、宿泊中の本能寺を家臣の明智光秀に襲撃されたのですが、光秀が信長を殺害した動機がいまいちわからないのです。
動機として考えられている一つとして、信長による四国征伐回避を理由とした「四国説」があります。
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四国征伐へ秒読み
絶妙なタイミング
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長宗我部元親の正室は、明智光秀の家臣・斎藤利三の身内でした。その縁もあって、長宗我部氏との交渉・調整役を明智光秀が担当しており、良好な関係でした。
ところが、信長は突如として元親との同盟を破棄して、長宗我部討伐の四国征伐軍を結成します。光秀は両者をとりなそうと仲裁しますが、信長はまったく聞き入れませんでした。
四国征伐が決まったことで、光秀の面目は丸つぶれです。
信長の三男・織田信孝を大将とした四国征伐軍の出陣は、天正0年6月2日(1582年6月21日)に決定。
明智光秀が本能寺の変を起こしたのが、天正10年6月2日の未明。
まさに四国征伐軍が出撃する直前のことでした。
それにしても、タイミングが良すぎる。
10年来の盟友である元親と、横暴な主君の信長とのあいだで板挟みに苦しみ、明智光秀は本能寺の襲撃を決意したと、四国説では推察されています。
本能寺の変のあと、光秀は豊臣秀吉に敗れますが、このとき元親は斎藤利三の娘・福(のちの春日局)を岡豊城で匿っていることから、少なくとも元親が光秀寄りの立場であったことがうかがえます。
長宗我部元親の有名な戦い
勢力を伸ばす長宗我部国親が本山領の長浜城(高知県高知市)を攻めた合戦。長宗我部軍は種崎城から夜襲をかけて戦況を打破すると、城兵は抵抗もできずに開城した。両軍は戸ノ本で激突。長宗我部元親の活躍で勝利し、本山軍を追い散らした。長浜表の戦いとも。
長浜の戦いで長宗我部元親は勝っています。
元親はわずか50騎で70の首級をあげ、自身も2人の騎馬兵を討ち取っています。出陣前に家臣から槍の使い方を習って出撃した初陣でした。
土佐国の平定を目指す長宗我部元親が土佐東部の安芸氏を攻めた合戦。八流(高知県安芸市)に陣を張った安芸軍に対して長宗我部軍は兵を二手に分けて対応。内応者が続出し、内部崩壊した安芸軍は敗退。安芸国虎は自害。長宗我部氏は土佐平定に王手をかけた。
八流の戦いで長宗我部元親は勝っています。
安芸氏を倒した元親は土佐東部を平定しました。この後、実弟・香宗我部親泰に安芸守を名乗らせて旧安芸領の統治をさせます。
長宗我部氏に対抗する一条兼定が中村城(高知県四万十市)を襲撃して挑発した勃発した合戦。長宗我部元親は素早く反応、出撃した。長宗我部軍の福留儀重が背後を脅かす動きで陽動、これにより一条軍は兵力が分散、正面からの攻撃で総崩れとなった。渡川の戦いとも。
四万十川の戦いで長宗我部元親は勝っています。
一条方の襲撃を知った元親は、3日後には軍勢を率いて対陣しました。驚愕のスピードで一条方の意表を突きます。一領具足の素早さと団結力で終始圧倒し、夕方には首実検を終えました。
阿波国へ侵攻した長宗我部元親が勝瑞城(徳島県板野郡藍住町)を攻めた合戦。十河軍と中富川付近で激突。一時は接戦だったが、戦力・勢いともに勝る長宗我部軍が優勢になり、勝瑞城を包囲。ここに雑賀衆が加わると十河存保は開城して降伏し、讃岐国へ退いた。
中富川の戦いで長宗我部元親は勝っています。
大雨で川が氾濫し、苦戦を強いられます。水が引いたのち、板野平野での激戦を制しました。
四国地方を制していた長宗我部元親を、阿波、讃岐、伊予の三方向から、羽柴秀長を総大将とした大軍が攻めた。讃岐方面から進軍した黒田官兵衛が諸城を攻略して、阿波に侵攻。小早川隆景が伊予を制圧した。四国全体で戦火が上がったが、長宗我部氏の降伏により終戦した。
四国征伐で長宗我部元親は敗れています。
長宗我部元親のターニングポイントになった戦いです。
四国をほぼ統一していた元親でしたが、豊臣秀吉の圧倒的な軍事力で四国をまるごと包みこむような襲来を受けて、なす術なく無念の降伏をしました。長宗我部氏の降伏は、豊臣秀吉の天下統一を勢いづかせます。
豊後国に侵攻した島津家久が大友氏の鶴ヶ城を攻める。これを救援するため、仙石秀久を主将とした豊臣軍が戸次川(大分県大分市中戸次)に布陣。秀吉は待機するよう命じたが、仙石隊は攻撃を開始してしまう。島津軍はこれを返り討ちにし、長宗我部信親を討ち取った。
戸次川の戦いで長宗我部元親は敗れています。
この戦いで嫡男・信親を失います。落胆した元親は自害しようとしますが、部下にとめられて命からがら脱出しました。
長宗我部元親の詳しい年表と出来事
長宗我部元親は西暦1539年〜1599年(天文8年〜慶長4年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
| 1539 | 1 | 長宗我部国親の嫡男として土佐国に生まれる。幼名:弥三郎 |
| 1560 | 22 | ”長浜の戦い”初陣。本山領・長浜城攻めに参加。 ”潮江城の戦い”本山領・潮江城攻めに参加。800の兵で陥落させる。 父・長宗我部国親の死去により家督を相続。 |
| 1561 | 23 | 本山領に侵攻。神田城、石立城を攻め落とす。 |
| 1562 | 24 | 本山領・朝倉城を攻める。本山貞茂(親茂)の奮戦に遭い退く。 |
| 1563 | 25 | ”福留の荒切り”本山茂辰に岡豊城を攻められるが退ける。 石谷光政の娘(元親夫人)と結婚。 長弟・親貞に吉良氏を継がせる。 |
| 1564 | 26 | 本山領・瓜生野城を攻める。 |
| 1567 | 29 | *江村親家を一条氏の援軍に派遣。 |
| 1568 | 30 | 本山貞茂の瓜生野城を攻めて降伏開城させる。 |
| 1569 | 31 | ”八流の戦い”安芸領に侵攻。安芸城を陥落させ安芸国虎を自害させる。 土佐国・安芸城に次弟・香宗我部親泰を入れる。 一条領・蓮池城を攻め落とす。 |
| 1571 | 33 | 津野勝興に戸波城を奪われる。 ”仁淀川の戦い”津野氏&一条氏を撃退する。 津野勝興が降伏、配下になる。 |
| 1574 | 36 | 一条兼定が豊後国に追放される。一条氏の内乱に介入する。 一条内政に娘を嫁がせる。【大津御所体制】 |
| 1575 | 37 | ”四万十川の戦い”一条兼定に中村城を奪われるが、吉良親貞の援助を受けて撃退する。 土佐国を平定。 織田信長から四国切取次第の朱印状をもらう。 |
| 1578 | 40 | 阿波国・白地城を攻める。大西覚養を追い払う。 阿波国・白地城に谷忠澄を入れる。 次男・親和を香川氏の養子にする。 |
| 1579 | 41 | 阿波国・重清城を攻める。十河存保に大勝する。 阿波国・岩倉城を攻める。三好康俊を降伏させる。 |
| 1580 | 42 | 三好領・讃岐国に侵攻する。十河城、羽床城を包囲する。 羽床氏が降伏、配下になる。 河野領・伊予国に侵攻する。 河野家臣・金子元宅、妻鳥采女を調略する。 三好氏&雑賀衆に阿波国・勝瑞城を奪われる。 |
| 1581 | 43 | 織田信長が一条内政を介して土佐国の支配を試みる。拒否し一条内政を追放する。 三好康俊が長宗我部氏に叛く。 *伊予国・岡本城を攻めた久武親信が討死。 織田信長から三好氏との停戦を命じられる。 織田家臣・羽柴(豊臣)秀吉に淡路国・岩屋城が落される。 織田信長が三好康長に阿波国、讃岐国の領有を認める。四国切取次第が反故になる。 |
| 1582 | 44 | 織田家臣・明智光秀から派遣された義兄・石谷頼辰に慰留される。無視する。 将軍・足利義昭の要請で河野氏と和睦する。 織田信長が織田氏と三好康長を構想とした四国国分案を出す。 三好康長に阿波国・一宮城と夷山城を奪われる。 織田家臣・明智光秀の配下・斎藤利三に四国国分案を受け入れる意向を伝える。 織田信長が死亡。【本能寺の変】 ”中富川の戦い”十河存保を攻める。雑賀衆の援軍を得て乱戦を制し降伏させる。 反長宗我部勢力を画策する一宮成相と新開道善を殺害する。 十河存保が篭もる勝瑞城を攻め落とす。 阿波国を平定。 羽柴家臣・仙石秀久、小西行長が讃岐国に攻めてくるが、撃退する。 ”第1次十河城の戦い”*次男・香川親和に十河城を攻めさせるが撤退する。 |
| 1583 | 45 | ”引田の戦い”*讃岐国・引田城を香川之景らが攻める。仙石秀久を追い出す。 ”第2次十河城の戦い”十河存保が篭もる十河城を攻める。雨滝城など支城を陥落させる。 |
| 1584 | 46 | 讃岐国・十河城を攻め落とす。 徳川家康から淡路国、摂津国、播磨国への出兵を要請されるが、応じず。 伊予国・深田城を攻める。 伊予国・黒瀬城を陥落させる。 伊予国・喜多郡に侵攻する。 |
| 1585 | 47 | 伊予国・喜多郡で毛利氏と争い敗れる。 ”四国征伐”羽柴(豊臣)秀長を総大将とした四国征伐軍を迎え撃つ。讃岐国、伊予国、阿波国を攻め落とされる。 羽柴秀吉に降伏、従属する。 羽柴秀吉が四国を平定。 豊臣秀吉から土佐国を拝領する。 |
| 1586 | 48 | ”九州征伐”島津氏の討伐戦に参加。 |
| 1587 | 49 | ”戸次川の戦い”仙石秀久の指揮下で島津家久との戦に参加。大敗し日振島に落ち延びる。長男・信親が討死。 |
| 1588 | 50 | 土佐国・大高坂城を居城にする。 次代に四男・盛親を指名。これに反対する比江山親興、吉良親実を切腹させる。 |
| 1590 | 52 | ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。伊豆国・下田城を攻める。小田原城の海上包囲に加わる。 |
| 1591 | 53 | 浦戸湾に迷い込んだ鯨を数十隻の船団で大坂城内に持ち込んで豊臣秀吉や町人を驚かせる。 土佐国・浦戸城を居城にする。 |
| 1592 | 54 | 宇喜多秀家を総大将とした日本軍の5番隊で福島正則、蜂須賀家正らと朝鮮国に侵攻。【文禄の役】 |
| 1593 | 55 | 朝鮮国から帰国。 |
| 1596 | 58 | スペインのガレオン船が土佐沖に漂着。増田長盛が積荷を接収する。【サン=フェリペ号事件】 |
| 1597 | 59 | 分国法・長宗我部元親百箇条を制定。 小早川秀秋を総大将とした日本軍の6番隊で朝鮮国に侵攻。【慶長の役】 |
| 1598 | 60 | 主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。 |
| 1599 | 61 | 三男・津野親忠を幽閉する。 山城国・伏見屋敷で病死。 |

- 長宗我部元親 – Wikipedia
- 【長宗我部元親・前編】土佐平定を経て、四国統一に迫った前半生ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将
- 長宗我部元親(長宗我部元親と城一覧)/ホームメイト
- 長宗我部元親の名言・逸話23選|戦国ヒストリー
- 長宗我部元親|若宮八幡宮
- 一領具足 – Wikipedia
- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
- 歴史人『戦国武将最強ランキング』KKベストセラーズ




